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伊豆箱根鉄道軌道線1962年1月 ■■
2000.3.18制作
2009.12.24/加筆訂正と画像大型化
前日に、東伊豆の、とある宿泊施設で鉄道好きの仲間で新年会を開催、その翌日、1962年・昭和37年1月28日、何処かへ乗りに行こうと云う事になり、丹那トンネルを抜けて
『三島』へやって来ました。三島から伊豆箱根の駿豆線で一駅の三島広小路駅で下車しました。ここから、沼津まで伊豆箱根鉄道の軌道線があったのです。『1963年・昭和38年の2月4日に廃止
』されたのですが、この時は未だ元気でお客さんを運んで居りました。
このレポートを書くにあたって、伊豆箱根鉄道広報宣伝課様に色々とお教えいただきました事をここで御礼申し上げます。
御提供頂きました軌道線の年表はここをクリックすればご覧になれます。
・・・・・と、云うわけで『三島広小路』です。困った事に、ここからの具体的記憶が、殆ど無いんですね。困った事であります。これから先はネガを見ながら何とか搾り出した数少ない記憶を繋いだものです。
三島広小路・・・204号車
モハ204・・・・中々、素敵な電車ですので細部を少々
社章と台車
ポールと前照灯・尾灯
発車を待つ室内
三島広小路から、ほんの少し行った所の路上で撮影です。
先ほどのモハ204が発車し、沼津方面に向かいます。
もうすこし沼津方面に歩いた所らしいのですが・・・・モハ202です。
・・・・・
一旦、『三島広小路』まで戻り、電車に乗って移動しました。電車は途中の『国立病院前』でオシマイになりました。先にある黄瀬川の橋が、1961年・昭和36年6月の大雨の影響で渡れなくなっており、終点の沼津駅前までバス連絡になっていると言うのです。
折り返しの『国立病院前』は、こんな場所でした。背後のお店は『森永コーラス』と『源氏焼酎』の看板があるところを見ると、食料品のお店でしょうか。
道路は、三島の市街地は舗装でしたが、やがて砂利道となり、ここも未舗装です。現代の道の事情から見ると、吃驚しますが、昭和の中ごろは、都市圏を外れると、道路の未舗装
は、普通でありました。私たちは、この電車、
モハ206に乗って来た様です。
ポールの上げ下げの作業がありました
ポールってモノは見てる分には実にいいもんです
・・・・然し、夜や雨の日の作業はさぞ大変だった事でしょう
モハ206の台車と懐かしいトーピード型のベンチレータです
(三島広小路で撮影)
さて、『国立病院前』停留所の近くには
『長沢車庫』がありまして、見学させていただきました。ここで軌道線の車輌の保守を受け持っています。流石は水の三島。構内の掘りぬき井戸からは水が大量に湧いていて中々素晴らしい環境です。
工場の壁に掛かっていた仕業検査表の黒板
記入された在籍車輌は
モハ8・15・16・17・201・202・203
204・205・206の10両
木造車が3両、今では信じられない様な光景が展開していました
左から、モハ15、モハ201、モハ16
モハ15・・・・ぶっきらぼうなお顔ですが、これはこれでいい味です
折畳式のステップの上下は、ドア開閉と連動しています
『電車代行バス』がやって来ました。
沼津へのお客さんは乗換えです。電車はモハ202
。この停留所周辺の記憶が全然残って居りませんので、乗り換えに際して、どの様な状況であったか、申し訳無いのですが、さっぱり判りません。
これが、電車代行バス
『電車代行バス』に乗って、『沼津駅前
』に来てみますと、終点の屋根の下に、なんと2両の電車が島流しになっている悲しい光景があったのです。
たしか、この電車達はついに走ることなく軌道線廃止の日を迎えたらしいです。
(長沢工場の「黒板」に拠れば、モハ205も三島に戻れなくなっているらしいけれど、写真には写っていません)
島流し状態のモハ17とモハ203
電車の発着場に、代行バスがやって来ます
代行バスの看板は塗料が剥げ落ちて居りました
これで、伊豆箱根鉄道軌道線、三島広小路〜沼津駅前の、嬉しくて寂しい旅は終わりました。このあと、私たちはキハ50の国府津行きに乗って御殿場線経由で東京に戻ったのです
。
1963年1月に再訪:廃線直前の画像はここをクリックしてください。
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