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■■ 箱根登山鉄道・小田急1954年(1) ■■
1954年・昭和29年12月


2007-04-22

 箱根登山鉄道 

1954年・昭和29年の12月、どう云ういきさつか覚えていないのですが
小田原・箱根に行ったのです
どんな経路で行ったかも覚えていません・・・・まあ、無理も無いでしょう、50年以上も昔の話です
ただ一つだけ覚えているのは、手持ちのお金が少なかったので、お昼ご飯が食べられず
蜜柑いくつかと、『塩豆』(ご存知ですか?)少々で昼飯代わりだった事
こんなつまらない事は覚えているのに、肝腎な事はさっぱりでしてね・・・・ま、ご勘弁下さい。

フィルムの駒の順番に写真を並べて行けば、思い出して来るかもしれませんね
では、最初の写真をどうぞ・・・・・


  箱根登山鉄道の小田原から二つ目の駅、風祭駅からのスタートです。・・・・と、なると多分、この駅の上に有った国立療養所(今でも在るかな?)の職員官舎に私の母の友人 が居りまして、時々、泊りがけで遊びに行っておりました。
 ・・・・で、 たぶん、その家に母を置いて私だけが電車の写真を撮りに出かけたのかも知れません。まあ、それはそれでいいけれど、箱根登山鉄道の115です。小田原行きで、ドアの脇に居るのは車掌さん、そう、ドアが手動なんですね。カラーはハッキリ覚えていませんが、窓周り黄色、腰板・幕板スカイブルーだったと思います。

 ・・・で、これには乗らないで、小田原から来た電車で、いきなり強羅に行ったらしく、強羅駅の写真になります。有蓋電動貨車のユ1です。色は何色だったかなあ、黄土色だった気もするし、薄いブルーだった気もするのです。 基本的にはポール集電だったんでしょうが、ビューゲルもついています。こんな、楽しい電動貨車が小田原から、生活物資や、鉄道用資材などを運んだ日もあったのでしょう。窓の上に在るRに、設計者の余裕を感じます。

 114と115です。基本的に現在の強羅駅は当時と変わっていないようです。

 強羅の駅を出た小田原行き115は、踏み切りを通り、観光ホテルの脇を抜けて下って行きました。とんがった屋根とヒマラヤ杉に異国を感じたものです。このホテルは小学校の6年のとき、昭和25年かな?に修学旅行(・・が箱根だったんですよ)で泊った想い出があります。こないだ通ったら更地になっており感無量だったですが。

  その後、強羅駅に戻り、多分、114で山を降りてきたんだと思います。いきなり、箱根板橋駅のシーンに変わります。次ページの小田原市内線の車両などを写していますと、新宿行きの急行 のトップナンバー2001以下2000系の三連がやって来て、さっき乗ってきた114が小田原で居り返してきた強羅行きと交換しました。セミクロスシート、トイレ付き の2000系三連の写真は、『箱根登山鉄道 ・小田急1954年(3)』で、ご覧に入れます。

 箱根板橋駅での被写体の主役は、当時は未だ健在だった、箱根登山鉄道小田原市内線です。それは、次ページで・・・・・。


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