■■ 国鉄貨物専用線【品鶴線】1959年 ■■
1959年(昭和34年)を中心に他の年も少々
東京の城南地区に国鉄貨物専用線の品鶴線ってのがありました。最近は『しなづるせん』と読む方もいらっしゃるようですが『ひんかくせん』と読みます。
品鶴線は、東海道本線の品川駅から分岐し、蛇窪信号所で山手線の大崎から来た線路と合流。大田区の馬込とか、上池上から、東急の池上線御嶽山駅の下をくぐり、同じく東急目蒲線を沼部駅のそばでオーバークロス。多摩川を渡り、右手に東急東横線の武蔵小杉駅を眺めつつ左にカーブ、新鶴見の貨物
の大ヤードを抜け、再び東海道本線に川崎駅〜鶴見駅間で合流します。
現在は、横須賀線とか湘南新宿ライン、さらにはNex、そのうえ新幹線まで平行して走っており、『ひんかくせん』の名も知らない方も増えたようです。
私の育った家は、その品鶴線のごく近くにありました。機関車の汽笛、ジョイントの音なんかだって聞えたのです。
私は、幼い頃から、この品鶴線を眺めながら育ちました。両親の話では、国民学校(今の小学校です)に上がる前、家には女中さんが居ました。いまのお手伝いさんですね。その女中さんに手を引かれて、ほぼ毎日、汽車(貨物列車です)を見に行ったのだそうです。汽車を見ると大喜びした私だったそうです。もう60年以上、遠い昔の事です。その所為か、今まで、ずっと鉄道大好き人間です。
更に小学校時代は、近所の遊び友達と連れ立って、品鶴線の土手に、貨物列車を見に通いました。土手の草の上に並んで腰を掛け、汽車の来るのを待ったのです。黒煙を上げて、D51、D52なんかが、長い、黒い、貨車の列を引いて、通りすぎました。私達は手を振り、声を上げて、機関士、機関助士に呼びかけたものです。手を振って貰えたりすると、それはそれは嬉しかったなあ。土手に生えているイタドリを折って口にしたり、ノビルを掘ったりもしました。ボケの花も綺麗だったですね。
1959年(昭和34年)私が二十歳そこそこ、大学3年生の頃、セミ判の普及カメラ『ミノルタセミP』を持って、良く撮影に通いました。幼い日の事を思い出し、そんな場所や列車を記録しようなんて気持ちがあったのかもしれません。
1950年代の中ごろまでは、この品鶴線には、蒸気機関車が普通に走っていたのですが、1959年にもなりますと、電機機関車の時代になっておりました。
1959年の、このアルバムには、下の地図の、東急池上線御嶽山駅を中心に、左は
多摩川の鉄橋から、右は呑川(のみがわ)にかかる橋梁辺りまでの範囲で写した写真があります。掘割あり、築堤あり、地平を走ったり、跨線橋、踏切、もあって変化に富んでおります。
現在は、横須賀線と新幹線の複々線で、もちろん踏切は無くなってしまい、掘割や築堤も、オール・コンクリートの構造物と化しましたが、当時は、ごらんの様な、のんびりした風景がひろがっていたのです。
品鶴線1959年
No.1:地図の東調布中学校から、御嶽山駅あたりまで
品鶴線1959年
No.2:蒸気機関車8620の引く貨物列車
品鶴線1959年
No.3:雪ヶ谷高校あたりの踏切を中心に