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■■ 赤坂見附・永田町風景:1953年 ■■

( 赤坂見附交差点の都電、ジェファーソン・ハイツ、旧・国防電話局など )

1953年・昭和28年、私は高校一年生でありました
兄のカメラを借りて学校へ持って行き、写した何枚かの写真
千代田区永田町界隈に残っていた「戦後」の風景です

  昔話を致しましょう。私の少年時代・・・・電車・汽車の写真を撮り始めた頃のお話です。

 昔も昔・・・・・大昔の写真をご覧頂きます。1953年・昭和28年9月、私が高校一年生のときに写したものです。
 当時の東京は、まだまだ戦争の残滓が各所にあり、爆撃されたままの壊れビル、復興された住宅・商店、新築のビル、そして戦前からの建物もかなり残っていたという、街の風景でした。
 私は、昭和28年4月から、31年3月まで、赤坂見附の丘の上にある、高校に通っておりました。ここの部活で、子供の頃から好きだった、電車汽車が、「趣味として確定」したようです。兄が購入したオリンパス35を借りて、電車汽車を写し始めたのです。

 昭和28年の9月、その日は、何曜日だったでしょうか、私はカメラを持って学校へ行き、休み時間に、校舎の屋上で級友を写したり、屋上や窓から、学校の周りの風景を撮ったりしたようです。そのフィルムの中から、何枚かご覧頂きます。


 赤坂見附と言えば、都電の「9系統」、「10系統」、「3系統」の交差点ですが、都電の写真はたったの一齣しかありませんので、このページの終わりの方でお目に掛けるとして、まず、この写真からご覧下さい。

(1) 学校の北側、直ぐ隣にはこんな建物群。
 米軍のハウス(米軍住宅・Dependant House)で、当時、ジェファーソンハイツ(Jefferson Heights)と呼ばれており、勿論、「柵の向こう側」で、ゲートには日本人のガードが立って居りました。千代田区永田町二丁目・・・・永田町と言えば、日本の政治の中心地ですから、そこに米軍関係の住宅、今考えれば、大変な事ですね。現在この土地には、衆参両院議長の公邸が並んで建っています。
 その向こうにはテレビ塔が二本、左がNHK、右が日本テレビ。日本テレビの塔は、受付で断れば、登る事が出来ました。NHKの塔の左下には赤坂プリンスホテルの旧館の屋根が見えます。プリンスホテルの開業は、1955年だそうですから、この当時は、1930年建造の旧・李垠邸だったようです。
 米軍のハウスは、三宅坂の現在、最高裁と国立劇場の建っている所にもあって、パレスハイツと呼ばれていました。こっちは、蒲鉾形だった気もしますがはっきりした記憶はありません。蒲鉾型は、今の憲政記念館あたりだったかもしれません。(渋谷区神南・・・・いまのNHKや国立室内競技場のあるあたりには、ワシントンハイツという、同じような米軍住宅がありました。)

(2) 中の一軒を拡大してみました。緑の芝生、白い壁の二階建て、屋根の瓦は何色だったでしょう・・・・これは、記憶がありません。

(3) テレビ塔を拡大してみました。NHKの塔の先端には、アンテナらしきものが見えません。スーパーターンスタイルアンテナって言うのか、バットウイングというのか判りませんが、乗っかっていたような気もしますが、写っていませんね。ひょっとすると建設途上だったのかもしれません。だんだん、アンテナ塔の背丈が伸びている様を見た記憶もありますから・・・・・。

 参考に、 赤坂見附交差点周辺の地図を・・・・。当時の版がないので、平成20年版・国土地理院2万5千分の1地形図・東京西部の一部を掲げます。まん中の赤丸の土地が「ジェファーソンハイツ」だったところで、建物が二つ見えますが、「左:衆議院、右:参議院の議長公邸」です。

 (4) (1)のジェファーソンハイツの写真から左へカメラを振ったところ・・・・北西方向です。右側手前丘の上はジェファーソンハイツの一部が見えています。 左の市街地建物群で一番目立つ白い大きなのは、地下鉄の赤坂見附駅で、一番右が入口、左の大きな戸は何時もシャッターが閉まっており、変電施設が入っていると思っていました。中央の遠景、外堀と、紀伊国坂。外堀の右の森は現在、ホテルニューオータニ。地平線上の右のほうに、上智大学のチャペルの塔が見えます。そして、その右端の塔のある建物は、麹町消防署。

(5) (4)の一部を拡大してみましょう。森の向こうの巨大な建築物は、旧・赤坂離宮ですが、現在は迎賓館・・・・・当時は何と呼ばれていたのでしょう。裁判官弾劾裁判所だった事があり、観光バスのガイドさんが、「弾劾」の意味を解説していた記憶があります。また、国会図書館だったこともあり、利用した事も一回だけあります。『はとバス』の一日コースで中を見たこともあります。
 手前の大きな建物・・・・地下鉄・赤坂見附駅は、このあたりで一際目立っていました。お隣が伊藤忠自動車で、ヒルマンとか、サンビーム、ハンバーとか、大きなアルファベットが書いてありました。こんな時に 、伊藤忠の社名が刷り込まれたのでしょうか、1964年、最初に買った自動車、スバル360の62年式は、伊藤忠自動車の中古車部(中野にあった)からでした。 以来、現在に至るもスバルを使っています。画面右奥のお堀端には、滲んだように小さく電車が写っています。3系統の700型でしょう。

 (6) 学校の南東方向を見ています。
 右端の木は日枝神社のもので白い道は公道から神社に上がる道。白い石塔も、黒い石碑も、日枝神社関係で、グーグルのストリートビューで見たら、今も、ちゃんとありました。
 丘の上(中央少し左)には首相官邸が見えます。問題は、画面中央のでっかいコンクリートの建造物です。何の用途だか、何処の所有物だか、さっぱり分かりませんでした。窓も無く、用途不明。級友たちと、爆弾が滑り落ちるように放物線曲面だとか、日本軍か政府関係の施設の名残だとか、お互いの推測を言い合ってました 。最近、この写真をブログで公開したときに、これは「国防電話局」で、建築家、山田守の作品なのだと判りました。

(7) (6)の中央部を拡大いたします。左上は首相官邸。丘の下に数棟のコンクリート二階建ての団地風の住宅があり、昭和30年代後半まで有った気がします。私は、独断で公務員住宅と思って居ましたが、本当のことは判りません。写真中央部ちょっと左に、なんと!土蔵があります。
 右側にど〜んと、謎のコンクリートドーム・・・・国防電話局。ドームの左下には、通気用の塔のようなものも見えます。右奥の二本の鉄塔、地図を見ると、どうやら愛宕山のNHKの放送用アンテナらしく思えます。すでに NHKの送信所は鳩ヶ谷に移転済みで、現役では無かった筈です。このドーム、 私が大人になった頃には、無くなっていました。

 (8) さて、いよいよ都電で が、ネガは一齣しかありません。赤坂見附の交差点で、「右が四谷、左が虎ノ門 」、「向こうが渋谷、背後が平河町二丁目から三宅坂」です。電車は10系統の須田町行です。 乗用車が6台写っていますが、みんな外車みたいです。左端のボンネットバスは都バスでしょうか・・・・・。

(9) (8)の中央部の拡大です。電車はナンバーは読み取れませんが、6000形です。大きな映画の看板は「楽園に帰る」で、M・ロブスン監督の総天然色映画。ゲイリー・クーパー主演ですが、私は見て居りません。交差点のまん中には、信号機が立っています。

 (10) 赤坂見附を通る都電の系統は、 9系統、10系統、3系統の三つがありました。私の撮った10系統の6000形一枚では余りに寂しいので、50年来の友人、はーさんに助けていただく事に致しました。
 はーさん製作のホームページ「はーさんの鉄道・旅・よしなし草/40年前の鉄道風景」には、この三つの系統の写真集があります。
 下の画像をクリックをクリックしていただきますと、三つの路線が豊富な写真で紹介されている写真集をご覧いただけます。 (このページに戻るには、ブラウザの「戻るボタン」をご利用下さい。)

 「都電: 9系統、10系統」

 「都電: 3系統」


 (11) 同じフィルムに、一齣、こんな画像が入っていましたので、ご覧下さい、場所は、渋谷です。(1)〜(10)とは別の日らしく、天候が曇天です。
 渋谷の東横百貨店の屋上からの眺めで、南の方角を見ていますが、高いビルが無い時代ですから、スカイラインが真っ平で、煙突だけが目立っています。
 右下が、東急の渋谷駅ホームの屋根、その向こうは国鉄渋谷駅の貨物ヤードです。渋谷川に沿った都電34系統の走る道路の両側の街並みは、如何にも戦後って感じです。

(12) (11)の左遠方を拡大してみました。東横線の電車はデハ3600でしょうか、白い屋根のクハは3770でしょうか・・・・。34系統の都電 (おそらく1200形)の姿も見えます。


 昭和の半分よりも前、進駐軍、米軍、占領なんて言葉が、 日常会話の中に普通に出ていた頃の東京の都心部の写真をご覧頂きました。


 謝辞: 都電の形式を同定 してくださった、友人、はーさん様、MO様、そして国防電話局についてお教え下さった、わらわら様に御礼申し上げます。


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