2002年4月、公開したページですが
サーバー容量の関係で、暫く公開した後、引っ込めて仕舞いました
2011年6月27日、改訂版として再公開
画像の大型化にともない、上巻・下巻の二頁だてと致しました
■■ 福岡と高知への旅1957年8月(下巻) ■■
大学2年の夏休み
、九州・博多そして土佐の高知へ旅したときの、かなりいい加減な記録です
今回、下巻では、
博多観光の後、母の故郷、土佐の高知へ回りました
1957年(昭和32年)8月10日・土曜日の夜は、おなじ大学、同じ学部のHくんの家に又もお世話になり
、翌8月11日・日曜日、大宰府の天神さまを参拝し、国鉄の久留米駅から、高知へ向かいました。
では続きをどうぞ!!!
今日も、友人Hくんに、付き合って頂いて居ります。不案内の土地ゆえ、大変あり難い。西鉄の平尾駅から、大牟田線の電車で二日市駅。大宰府天満宮に行こうってわけで乗り換え。天神様を訪れました。社殿の写真も撮っていません。『旅は体験であり、写真を撮ってばかりではいけないのだ!』という、雑誌だか本で読んだ『旅の姿勢』にかぶれていたのかも知れません。
天満宮境内には当時、駅に設置されだした、切符の自動販売機利用の御神籤機(名付けて、おみくじ自動押出器)があってあっけにとられた記憶だけ残ってます。一本・・・って云うのかな・・・10円でした。
天神様を後にして、久留米に向う。西鉄二日市駅まで乗った大宰府線、そして、二日市駅・・・・・大牟田行急行が進入して来ます。これも、モ100とク150の編成で
、これに乗る。
西鉄久留米駅で下車。これで、西鉄はお終いです。振り返ってみると、モ200という卵型前頭の軽快な電車、モ500って一寸前面が傾斜した連接車も、見た記憶があるのですが、
きちんと写真を撮って居りません。残〜念。
ま、そんな訳で、夕方の久留米の街を西鉄久留米駅から、国鉄の久留米駅まで、Hくんと歩いて行きました。途中、家の間に路面電車(西鉄塗装)が顔を出していたのですが、写真無し。もっとも夕方遅かったので、写真撮らなかったのかもしれません。あれは、西鉄の何線って言うんだろうか・・・・・。
未だに納得できないで居ります。
国鉄の久留米駅に着き、汽車の時間までの待ち時間、駅前の薄暗い食堂で、チャンポンの夕食。これが、非常に不味かったので憶えております。
・・・・・で、国鉄で、岡山に行き、四国に渡り、母の故郷、土佐は高知に行こうって計画です。Hくんに見送られて乗ったのは
、筑豊線経由の東京行・急行『あそ』でした。
もう、すっかり夜になっていて、冷水峠も、飯塚駅も暗くって、よく判りませんでした。食堂車で何か食べたようですが、そのへんもよく判らない。もうひとつ記憶があります。腹が痛くなったんです 。旅の途中、ちょっと心細くなりました・・・・乗客専務さんにお願いして薬・・・・正露丸を貰いました。・・・・・このページを書いてるうちに、そんな事まで思い出してしま いました。
腹痛もなんとか治まり、1957年・昭和32年8月11日
・日曜日、急行『あそ』は朝も早い山陽本線を疾走する。前から気になっていた、『井笠鉄道』を見ていこうと、笠岡駅で下車しました。
朝のうちのほんの短い時間ですが、井笠鉄道の気動車で、一つ目の駅『鬮場(くじば)駅』まで往復。何枚か写しました。その中の一枚・・・・鬮場駅にて。
井笠鉄道に興味をお持ちの方は、『軽便展示室』に、ちょっぴりですが写真が展示してありますので、
このページの最後にリンクが御座いますので、後ほど、御覧下さい。
井笠鉄道見物も終り、山陽本線普通列車利用で、岡山駅に
着きました。駅前のごちゃごちゃした商店街をちょっとだけ歩き回りました。そのとき、たった一枚、岡山電軌を写しております。なんの脈絡もなく、当時、マンボが流行ってた事もおもいだした。
東山行の
二軸単車352・・・・
独特のパンタグラフが特徴的
向こうが岡山駅です
宇高連絡船で高松に渡り、ここから高知までは、国鉄土讃線。乗ったのは準急の南風。国分駅で上りの南風と交換します。こっちは蒸気機関車牽引ですが、上りは当時、最新鋭の電気式ディーゼル機関車DF50。
高知といえば、『土佐電鉄』。路面電車と鉄道線があって、高知市内から、後免町〜安芸方面への路面用車輌が直通もしていたのですが、なんと一枚も撮ってない。何やってたんでしょうか?多分、親戚の家を回り歩いて、ごろごろしていたんでしょう
。
・・・・・・・で、1957年(昭和32年)8月14日、2日間居ただけで、もう高知はおしまいで、次の立ち寄り地、神戸に向かいます。利用した列車は、準急『南風』でした。当時の土讃線で、一番ランクの高い列車でありました。牽引機はDF50。
土佐山田から勾配区間となり、ゆっくりと準急南風は登って行きます。
トンネルも滅茶苦茶多い。
流石はディーゼル機牽引で、トンネルも窓を閉めなくて良いのは嬉しかったのです。
阿波池田駅で『南風』のマーク・・・・客車はスハフ42・・・・たぶん。
宇高連絡船で本州に渡り岡山から山陽本線で神戸です。何処の駅で降りたのか、綺麗さっぱり忘れました。長田区にあった親戚のお家に泊めていただきました。長田の山の上の方にあったお家で、夜は縁先から眺める夜景がステキでした。山陽本線を走る、電車・汽車の窓の明かりが動いてゆくのが見えました。
明けて1957年(昭和32年)8月15日
・日曜日、関西エリアの電車に乗ろうと出かけてゆきました。神戸から大阪に行くのは、当時、大好きだった阪神電車を選びました。阪神間ノンストップの特急には乗らず、急行に乗ったようです。しかも最前部。短い幅の狭いオール電動車5連の急行が、分厚い割り石の道床、50キロと聞いたレール、カーブの連続する阪神間を、ハイスピードで走る阪神電車は、私の憧れでありました。
ここは、深江駅、右端に見える建物は深江交番
やって来るのは、元町行きの特急電車3011形3連
芦屋駅では元町行急行とすれ違い
先頭は881形で、851、861とともに、二枚折戸の貫通扉の、喫茶店とか呼ばれた素敵な顔
左上・右下と斜めにつけた急行灯がカッコ良かった
西宮駅で普通電車に乗り換えたのでしょう、今津駅で下車しています。
高校時代の昭和29年夏、当時、今津に住んでいた兄の下宿に10日ほど泊まって
関西電車に乗り歩いた思い出の地、今津に下車はしたけれど、ちょっと歩き回っただけのようで、写真は・・・・・・。
阪急電車今津線
北の方から来た阪急電車は急カーブで阪神に平行に今津駅に入ってきます
今津駅の梅田行ホームから見た元町行きホーム
何処だ変わりませんでしたが、広告看板を読んで判明
特急電車が通過するこの駅は、どうやら今津駅らしいのですが・・・・・
野田かなあ?とも思われます
何処を、どう乗り歩いたか完全に忘れましたが、一日、歩き回ったようです。梅田で映画を見たような記憶もあるけれど、この時かどうかわかりません。またも、神戸の親戚宅にお世話になり、翌日には甲子園で高校野球を見ています。
・・・・・・・・・で、1957年・昭和32年8月16日・金曜日の甲子園球場の光景。話のタネにと、高校野球が行われていたのをちょっとの時間、体験しました。
たしか、外野席は無料だったのです。
此処までで、旅のフィルムは終わっています。神戸に、もう一泊して東海道本線の急行で東京に戻ったか、16日の夜行の普通列車で帰京したのか、わかりません。なんとなく尻切れ蜻蛉状態のアルバムで申し訳ありません。特に終わりごろは、呆れるくらい見事に鉄道カンケイ、写してませんね。
そんな訳で、これで、お仕舞いです。お粗末さまでした・・・・・・・・・。
1957年8月11日に立ち寄った井笠鉄道の写真を少々展示中です
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