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■■ 東京都電・32系統・学習院下電停 1974年 ■■

1974年1月〜3月の撮影と思われる「東京都電のアルバム」です
撮影した時期は、 同じフィルムに写っている息子たちの成長具合から推測されます
1973年の暮れって事もあり得るわけですが・・・・

そんな頃の都電の風景・・・・・


 フィルムを入れてある 、お煎餅の缶から、都電の写っているフィルムが出てきました。そのフィルムには、都電が写っている駒が、四つありましたが、撮影場所は、簡単に思い出しました。・・・・・豊島区高田、明治通りに添った『学習院下』電停です。
 撮影年月日のメモがありませんが、都電は、『32』の系統板を付けております。私は、このフィルムの撮影が、1974年1月〜3月、オマケして1973年の暮れと、同じフィルムに写っている、二人の子供の写真で判断しました。これを、一年、前とか、後に持ってゆくのは、下の子供が2歳半ば、4歳半ばという事になり、写っている子供の姿かたちから、ちょっと考えられず、間違いなく、1974年・昭和49年の1月〜3月頃と思います。

 さて、都電です。東京都電は、昭和40年代に入り、続々と廃止され、1972年・昭和47年11月12日に、残っていた『23、24、27の一部、28、29、38系統』が廃止されて残るは、『32系統:早稲田〜荒川車庫前と、27系統の残り部分:王子駅前〜三ノ輪橋の二系統』となりました。
 1974年・昭和49年10月1日、この『27系統の残存部分と32系統を統一して荒川線』として、再スタートしたわけですが、このアルバムは、これが統合されて、現在の荒川線となる間の時期に撮影したものと判断して、間違いないと思われます。
さて、都電です。東京都電は、昭和40年代に入り、続々と廃止され、1972年・昭和47年11月12日に、23、24、27の一部、28、29、38系統が廃止されて残るは、32系統:早稲田〜荒川車庫前と、27系統の一部:王子駅前〜三ノ輪橋の二系統となり、これが統合されて、現在の荒川線となりました。

 撮影時の状況の記憶は皆無なのですが、この頃、私は池袋の某社に勤めており、たまにジープ色の愛車、「スバルREX」で会社に行くこともあったので、通勤途上で一寸だけ立ち寄って写したのかも知れません。

 (1) ま、そういうことで、学習院下の電停脇の踏み切りです。 架線鉄柱が王子電車の雰囲気です。道路・踏切の舗装、道床と道路の境目が判然としない辺りが良いですね。
 線路の右側(西側)は、明治通り(銚子屋工具店の看板に高戸橋が隠れている筈)、近づいてくる7087の背後に神田川に架かる鉄橋が見えて居ります。

 (2) (1)の電車が学習院下電停に入ってゆきます。お客さんは殆ど乗っておりませんね。

 (3) (2)の電車の部分を拡大してみました。向こうが鬼子母神前になります。

 (4) 反対側から早稲田行が来ました。こっちは、お客さんが沢山乗っているようです。

 (5) 踏切が開いて、ぞろぞろと渡る四人。朝の出勤風景と思われます。
 この先、神田川を渡り、高田馬場から来た15系統、茅場町行きと合流して、左方の早稲田へ向っていたのは、昔の話で、この頃には既に15系統は無くなってますね。で、面影橋 から早稲田の終点。

 以上で、昭和40年代 、32系統・学習院下電停での都電風景はお終いです。


 謝辞:
 このページを作成するに当たり、『27系統・32系統』が『荒川線』へ移行する経緯をお教え下さった鉄道愛好家の畏友、T.S様、H.H様、そして、2008年1月13日付のブログ『お出かけ通信:blog版』の『東京都電荒川線1974年』にコメント頂いた、minkwa様、quatre-l様に、感謝いたします。

( 製作:2012年3月23日 ) 

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