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■■ 駿遠線こぼれ話 第ニ話 ■■

快速列車運転物語


 静岡鉄道駿遠線は路線長が60.7kmもあり、旅客サービスのために快速列車が運転されていました。軽便鉄道の優等列車は珍しく、全線単線で非電化の駿遠線では、列車の行違い(列車交換)だけでもたいへんでした。初めのうちは便利な日中も運転されていましたが、そのうち朝夕のラッシュ時だけになり、それでも最後の頃まで運転されていました。また定期快速とは別に、夏季臨時の海水浴快速も運転されました。これらの列車に乗ったり、思い出のある方も多いと思います。

1.快速列車の車両

 駿遠線の快速列車が最も頻繁に運転されていた時期は、昭和33年から昭和36年の頃です。
 この時期に新鋭のキハD14系はまだ製造、増備されておらず、廃止された他の軽便鉄道(赤穂鉄道・鞆鉄道)から車両をカキ集めていた時期です。そのため快速列車といっても、特定の車両が運用されていたわけではなく、その日その日で様々な車両が使用されていました。したがっていつもボギー式のキハD形ばかりではなく、ときには片ボギー式のキハC形も使われ、独特の音と乗り心地で快走(怪走?)していました。

 もっとも快速列車といっても特別に運転速度が早いわけではなく、停留所や停車場(駅)を通過するので、その分早く走れるというだけでした。また駿遠線の内燃客車(気動車)の外観はマチマチでしたが、エンジン(内燃機関)の性能は共通でした。このため、どんな車両でも快速列車として運用できたのです。もっともDB60形機関車では、馬力が足らず快速列車牽引は無理でした。しかし駿遠線最後の頃には、大型機関車のDD501形が朝の快速列車に運用されていました。客車を4両も5両も連結し、その先頭に立つエンジ帯の白い車体は、朝日に映えて実にみごとでした。ただし定期快速列車には、最後まで愛称はありませんでした。

2.幻の全線快速列車

 昭和33年10月1日から昭和34年9月21日までの1年足らず、この間だけ新藤枝〜新袋井間の全線に快速列車が運転されていました。記録によると、駿遠線の快速運転開始は昭和31年11月19日、新藤枝〜地頭方間。また昭和33年5月20日新袋井〜新三俣間で開始。そして同年10月1日には、地頭方〜新三俣間でも快速運転が始まったようです。この区間の停車駅は浜岡町だけで、あとの駅(停留所)はノンストップでした。地頭方〜新三俣間には浜岡町の他に、堀野新田・遠州佐倉・千浜にも列車交換施設(側線)がありましたが、閉塞区ではなかったので、停留所なみに通過していました。しかしこの区間ではもともと列車本数が少なく、通過駅のお客さんを乗せることができなかったため、早くも昭和34年9月22日改正ダイヤで姿を消してしまいました。このダイヤ改正からは、芝駅にも快速列車が停車するようになり、それからの快速停車駅に変化はなくなりました。
 全線快速列車は上下各1本で、上り132分(2時間12分)、下り137分(2時間17分)で運転されていました。駿遠線の最短所要時間記録です。このときの列車走行時分は、上り下りとも126分30秒でした。だから上り列車など停車時間は各駅とも10〜30秒で、最長でも60秒(1駅)でした。列車は常に走りっぱなしの状態で、乗務員は、特に運転手さんはたいへんだったそうです。この全線快速が廃止され、鉄道ファンとしてはたいへん残念ですが、ホッとしたのは実は乗務員さんだったのかもしれません。全線快速のほかに、途中から快速になる列車も上下各1本ありました。下りの1本は、新藤枝〜相良間は普通列車で、相良から快速列車になりました(相良〜新袋井間快速運転)。上りの1本は新袋井〜地頭方間は普通列車で、地頭方から快速列車となりました(地頭方〜新藤枝間快速運転)。いずれにせよ当時の静岡鉄道による、駿遠連絡の期待と意気込み(快速運転による所要時間短縮)がうかがえます。

全線快速列車停車駅:
新藤枝〜神戸村(遠州神戸)・上吉田・根松〜静波・榛原町〜相良・新相良〜地頭方〜浜岡町〜
新三俣・南大坂〜新横須賀〜新岡崎〜(芝通過)〜新袋井

3.猛烈な快速列車

 昭和35年6月1日改正ダイヤは、実に画期的でした。快速列車が先行する普通列車を追越すという、大手私鉄なみの緩急結合運転が行われたのです。このような追越し運転は、下り列車にはありませんでしたが、上り列車3本に見られました。駅によっては、線路容量がギリギリでした。しかしこのような積極的な快速運転も、昭和37年10月1日改正ダイヤではもう見られなくなってしまいました。
 その実態は、どのようなものだったのでしょうか。昭和35年夏のある日、ある人が新袋井から浜岡町に行こうとして、8時6分発の普通列車につい乗り損ねてしまいました。駅員さんに聞いたところ、「次の8時27分発の普通列車を見送って、8時49分発の快速列車に乗れば間に合います」と言われました。乗り損ねた列車の、実に43分も後の列車です。半信半疑ながら、この人は言われた通りの列車に乗りました。すると途中の新横須賀で先に発車した8時27分発の普通列車を追越し、終点の新三俣で乗り損なった8時6分発の普通列車に追いついたのです。というよりも、快速列車が新三俣9時28分着で、そのまま9時30分発普通列車に変身したのです。おかげでこの人は、予定どおり9時49分に浜岡町に着くことができたそうです。ものすごい快速運転ぶりですが、ネタを明かせば駿遠線では同じ列車番号でも1本の列車ではなく、複雑な車両運用が行われていたからです。

定期快速列車停車駅:
新藤枝〜遠州神戸・上吉田・根松〜静波・榛原町〜相良・新相良〜地頭方・堀野新田・玄保・遠州佐倉・桜ケ池・浜岡町・塩原新田・合戸・千浜・(夏季臨時停車:国安海岸)・西千浜・新三俣・南大坂〜新横須賀〜新岡崎〜芝〜新袋井
注)一部快速は相良〜地頭方間、または新三俣〜新横須賀間は各駅停車もあり

4.真夏の快速列車

 駿遠線では定期快速列車とは別に、夏季臨時快速。いわゆる海水浴快速列車が運転されていました。この時期定期快速列車は朝夕だけの運転になっていましたが、海水浴快速列車は日中に運転されました。また停車駅も普通の定期快速とは違い、途中まで各駅停車、以遠ノンストップという運転形態でした。
 夏季臨時快速列車が運転された昭和40年頃は、日本中で海水浴ブームが巻き起こりました。国民所得が向上したのに、レジャー施設の発展がまだ不十分だったため、人々は身近な海水浴やハイキングなどに押し寄せました。有名な京浜急行の海水浴特急は、列車退避設備の無い横浜駅などでも普通列車を追越していました。その方法は先行の下り普通列車が渡り線を転線し、上り線に入って後続の海水浴特急を退避し、再び下り線に転線して発車していました。

 駿遠線では昭和39年9月26日に、新藤枝〜大手間(大手線)と堀野新田〜新三俣間が廃止され、旧藤相線と旧中遠線に分断されていました。しかし海水浴快速の運転は、旧藤相線側にとっては明るい材料でした。列車はありったけの車両を動員し、満員の海水浴客を乗せて快走しました。この臨時快速列車にはさざなみ号という愛称がつけられ、軽便鉄道に乗って海水浴に行ったという思い出のある方もいらっしゃるかもしれません。

 海水浴快速は年によって多少違いますが、下りは榛原町行き1本と相良行き1本が運転され、新藤枝〜大井川間は各駅停車、以遠榛原町までノンストップで走りました。相良行きは榛原町で先行の普通列車に追いつき、ここからは2列車併結の長い長い列車となって、終点相良まで走りました。一方上りは、榛原町発1本と相良発1本が運転された年と、榛原町発1本だけの年がありました。相良発の列車は相良〜榛原町間ノンストップでしたが、榛原町〜大井川間では列車交換のため、根松または上吉田に停車しました。JR特急などではよく運転停車ということをします。

 これは時刻表上は通過扱いで駅に停車し、自動ドア開閉操作も行わない運転形態を言います。駿遠線でもこの運転停車にすればスッキリしたのでしょうが、手動ドアやオープンデッキの客車が駅に停まれば、お客さんに乗り降りを止めてもらうわけになどいきません。そのためこの区間ノンストップとならず(停車駅1駅追加)、大井川〜新藤枝間は再び各駅停車となりました。なぜ定期快速の通過する新藤枝〜大井川間の各駅に停まったのか理由はわかりませんが、おそらく藤枝近郊の乗客を丹念に拾い、海水浴場に速達サービスしようということだったのかもしれません。

 真夏の輝きともいえる臨時快速列車でしたが、いかんせん大井川木橋の老朽化が問題となりました。また海水浴ブームも徐々に冷め、昭和42年10月16日改正ダイヤからは、海水浴快速も定期快速すらも姿を消してしまいました。そして翌43年の8月21日には、大井川〜堀野新田間の路線が廃止されてしまいました。また新袋井〜新三俣間は、前年の昭和42年8月27日に廃止されています。

海水浴快速(さざなみ号)停車駅:
下り:新藤枝・高洲・大洲・上新田・大井川〜榛原町(以遠併結運転)・片浜・太田浜・相良
上り:相良〜榛原町〜根松または上吉田〜大井川・上新田・大洲・高洲・新藤枝

5.快速列車こもごも

@ヘッドマークの話

 かつて私鉄の優等列車は花形で、一般に大きく列車種別表示板(ヘッドマーク)を掲げて快走していました。しかし駿遠線の快速表示板は、実にかわいらしく地味なものでした。車体下部に取付けられた小さな四角い鉄板で、白地に濃青色でただ「快速」とだけ表示されていました。当時プラスティック板はまだ普及しておらず、大手私鉄ではホーロー板を使用していた時代で、地方私鉄では鉄板にペンキ塗りが一般的でした。面白いのは他の軽便鉄道で快速運転をしていた越後交通栃尾線でも、同様にかわいく地味な快速表示板が使用されていたことです。一方海水浴快速のさざなみ号には快速標記がなく、ただ「さざなみ」とだけ表示されていました。この列車は途中まで各駅停車だったので、快速という表示を遠慮したのでしょうか。いえ、ただ表示板が小さすぎて、文字が入りきらなかっただけのようです。

A走行中のタブレット交換

 快速列車の乗務員、運転手さんが最も気を遣ったのは、通過駅のタブレット交換でした。これは走行中に受け渡しを確実に行わなければならず、もし落としてしまったら列車を急停止させ、走って拾いに戻らなければならなかったからです。また晴れた日なら問題が少なくても、雨の日や寒い時期などいつも以上に気を遣ったそうです。走行中の手順は、まず駅構内信号の腕木が下がり、青であることを確認してから減速進入します。低速走行しながら前閉塞区間のタブレットとキャリアーを、ラセン状の受器に引っ掛けます。そのまま次閉塞区間のタブレットのキャリアーを、タブレットキャッチャーまたは駅員から受取ります。これら操作は運転台の窓から身を乗出して行うため、結構危険な作業でした。また右手は常にブレーキをかけられるようにするため、左手で作業をしなければなりませんでした。

 タブレットに気を遣ったのは駅員さんも同じでした。列車の進行速度は時速15〜20キロと低速でしたが、満員のお客さんを乗せた列車を止めてしまうわけにいきません。また対向列車も時間通り発車させなければなりませんでした。このため次閉塞区間のタブレットのキャリアーが、確実に通過列車の運転台にしまい込まれたのを確認するやいなや、受器から前閉塞区間のタブレットキャリアーを取出し、中のタマ(タブレット)を確認するや猛ダッシュで対向列車に渡しました。両方の列車が発車してヤレヤレといったところですが、別の心配もありました。各閉塞区間のタブレットの形は厳重に決まっており、間違った形のタブレットを渡してしまうと列車が運転できなくなってしまいます。駿遠線は全線単線のため、常に正面衝突の危険があったからです。もし○の区間に□のタブレットを渡してしまったら、タクシーで追いかけてでも、正しいタブレットを渡し直さなければなりません。このためキャリアーの中身が○か△か□かなどと、いつも注意しておく必要もありました。激しい雨の時など、滑りやすい手元足元に注意しながらの作業でした。

 高度なATSやCTCといった装置のない時代、駿遠線の快速列車はこうして、人間と人間の力で安全に運転管理されていました。こうした安全運転の自信と誇りが、静岡鉄道駿遠線の現場職員全員を支えていたのかもしれません。もっとも給料は安かったそうですが…。


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