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■■ 駿遠線こぼれ話 第五話 ■■
人が客車や貨車を押した橋
静岡鉄道駿遠線とその前身の藤相鉄道の歴史は、大井川越えに始まり大井川越えに終わったといっても過言ではありません。江戸時代は架橋を許されず、越すに越されぬと歌われたこの大河は、名うての暴れ川でもありました。
大井川町と対岸の吉田町を結ぶ大井川最初の橋は、明治18年3月に建設された国富(くにとみ)橋でした。それに至る数百年間、江戸幕府が橋の建設を許さなかったのは江戸防衛も当然ですが、大井川にはいくら橋を架けてもすぐ流されてしまい幕府財政が圧迫されるせいもありました。事実国富橋は4年後には台風で流され、明治23年5月ほぼ同じ場所に富士見橋が建設されました。その橋も台風で流され、明治31年1月新国富橋を建設。その橋もまた流され、明治35年5月に新しい富士見橋が建設されました。藤相鉄道は大正4年には大井川の両岸、大井川駅と大幡駅まで開通の運びとなりましたが、この間は徒歩連絡に頼らざるを得ませんでした。また乗客が大井川を渡る富士見橋は、この時代なんと渡し賃を徴収する有料橋でした。橋の渡し賃は、明治39年当時で人は2銭、牛馬5銭、人の乗っているカゴ7銭、荷車7銭5厘だったといいます。暑さ寒さの不評もさることながら、橋上は台風でなくても雨や風(遠州のカラッ風)がまともに吹きつけ、これは乗客にとっても鉄道経営者にとっても頭痛の種でした。
藤相鉄道では打開策をいろいろ検討した結果、ついに大正4年に有料の富士見橋を買収。当初は荷車で連帯輸送を開始しましたが、そのうち橋の半分にレールを敷きました。つまり上流側に人車軌道、下流側は従来通りの歩道としたのです。この仮橋に認可を得て、大正4年7月21日から貨車の直通運転を開始。さらに同年11月11日から人車軌道の営業が開始され、藤相鉄道の乗客は徒歩で大井川を渡らなくても良くなりました。日本では川を渡る区間だけに約1.6kmの軌道を敷設し、人車鉄道として別途営業した例は他にありません。ちなみに大手〜藤枝新間の運賃は7銭、藤枝新〜大井川間11銭に対し、大井川〜大幡間の人車軌道は5銭でした。しかしここを徒歩で渡れば、2銭で済みました。
大井川を渡っていた人車客車は、6両の手押し用客車です。製造所、製造年は不明で、オール木造(台枠も木製)の2軸車、長さ3,521ミリ・幅1,549ミリ・高さ2,083ミリ・自重約1トン・定員12名でした。普通の客車型車両で、屋根はシングル、窓は片側5枚で、車側ブレーキ(足踏み式)を備えていました。この時代車内灯はなく日中の運行であったといいますが、日暮れの早い冬季など揺れる橋の上で、乗客はさぞ心細かったことでしょう。人車としてはかなり大型のもので、車丁といわれた車夫が数人がかりで押していました。雨の日風の日、暑い照りつける日、寒風吹きすさぶ日など、その苦労はたいへんなものでした。しかも大井川前後には25パーミル勾配(1000分の25という上り坂)があり、乗客を乗せると1.5トン以上になる客車を、3・4人がかりで必死に押し上げていました。橋の上やっとは平らになるので、ここは2人ほどでゴロゴロと押して行き、下り坂は車体に取り付けられたブレーキを使いながら軽快に自走しました。しかし機関士や車掌といった乗務員は徒歩で橋を渡り、対岸で待機している列車に再び乗務したといいます。また貨物は乗客のように乗り換えることができないため、橋のたもとまで蒸気機関車で押し、そこから車丁が貨車を押して渡ったということです。ちなみに藤相鉄道では貨物量が多かったため、軽便鉄道では一般的な2軸車ではなく、開業当初からボギー車が用意されていました。
軽便鉄道のボギー貨車は比較的珍しいのですが、車体は木造で、大きさも2軸車と大差ありませんでした。
この時の認可条件によると、人車客車は本線にあたる鉄道線での運用はできず、強風や大水のときは運転を休止し、2台以上続行運転の場合は7間(約21メートル)以上の間隔を空けることが義務付けられていました。また仮橋専属の巡視員を置き、桁の接合箇所を監視して、常に安全状態を保つよう求められていました。この人車区間は単線だったので、数台続行して橋を渡る
と、反対側からの運行は少なくとも30分は不可能でした。人車の往復には40分〜1時間を要し、運行が混乱すると両側の鉄道線のダイヤをしばしば乱しました。そこで藤相鉄道では仮橋の中央部に複線区間を設け、双方から運転される人車の行き違い(列車交換)ができるようにしました。これは大正7年6月23日申請、同年10月15日認可にて実施されています。この時も条件があり、待避線で待避できるのは、客車2両・貨車2両を限度とすべしというものでした。橋脚の過重負荷による「陥落事故」を恐れたものと思われます。
余談ではありますがこの仮橋の併用軌道による輸送は暫定許可が建前で、当初の認可は使用期限を半年限り(大正4年5月8日認可、同年11月7日まで)としていましたが、藤相鉄道では期限の3日前になってもう半年(翌年3月11日まで)の延長使用を申請しました。これが認められたのを皮切りに延長使用の申請を繰り返し、当初は1年間の延長申請を出すと、監督局は半年許可していましたが、しまいには2年申請し1年許可を繰り返すようになりました。こうしてついに延長申請の繰返しは、大正13年までの実に9年弱におよんだということです。
こうして苦労して大井川を越すことができたのもつかの間、大正11年夏の集中豪雨で、せっかくの富士見橋が流されてしまいました。人車軌道も休業を余儀なくされました。そこで藤相鉄道は沿線町村に働きかけ、県当局と何度も折衝し、県道の新富士見橋に併用軌道敷設を出願しました。これは橋の建設費の一部を負担し、橋の片側に線路を敷かせてもらおうとしたものです。
すなわち藤相鉄道は、県道富士見橋の永久橋架け替えの機をとらえ、建設費45万円のうち20万円を負担しました。こうして大正13年4月4日、大井川〜大幡間1マイル1チェーン(約1.6km)が、橋梁上だけ軌道法(他は軽便鉄道法)の適用を受けて開業。道路との併用軌道ではありましたが、ようやく列車が直通できるようになり、人車軌道はその苦難の歴史に幕を下ろすことになりました。そして新富士見橋の完成とともに人車軌道は廃止されましたが、日夜大変な労働を強いられてきた車丁たちは、目に涙を浮かべて喜んだということです。このとき大井川駅は開業当初の富士見橋の近くから、約1キロ藤枝寄りの地点ある大井川町相川に移転し、一方対岸の大幡駅は役目を終えて廃止されました。