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■■ 駿遠線こぼれ話 第七話 ■■
砲弾を運んだ人車軌道
静岡鉄道藤相線(元藤相鉄道)の終点地頭方と、中遠線(元中遠鉄道)の終点新三俣の間は、約15kmほど離れていました。この間は鉄道の空白地帯のようですが、実はこのあたり一帯には軌間(線路の幅)600mmの軌道が張り巡らされていました。しかしそれらは人や荷物を運ぶことがなく、一般の人の目に触れることすらありませんでした。なぜならそれらは、旧陸軍が敷設した軍用軌道だったからです。当時遠州灘にのぞむ浜岡砂丘一帯は無人地帯で、陸軍遠江射場という射撃演習場が広がっていました。その中心施設は今の大東町浜野付近にあり、24cm榴弾砲の砲座が据えられていました。ここから発射された演習用の砲弾は10km以上の射程距離を飛び、浜岡町池新田の先あたりに落下しました。この高価な砲弾を回収するために、陸軍の手で軍用軌道が敷設されたのです。
今でも軍隊にとって射撃訓練は重要で、静岡県内にも東富士演習場などがあり、実弾演習が盛んに行われています。これは10km以上離れた地点でもドカンドカンと音が聞こえ、遠雷のような空気の振動を感じます。特に夜間訓練は花火よりきれいで、わざわざ遠くから見に来る人がいるほどです。この遠江射場で使用された弾薬類を輸送することも、元中遠鉄道の役割のひとつでした。旧国鉄の袋井駅で積換えられ、南大坂駅まで貨物列車で運ばれ、さらに大東町浜野まで軍用軌道で運ばれたといいます。この浜野には軍用施設の遺跡が残り、古いコンクリートの建物やトンネル、プラットフォームの跡らしきものが残されています。一方の池新田にもトーチカの跡が残されており、遠江射場の広大さの一端を窺うことができます。
終戦後遠江射場は返還されましたが、敷設された軍用軌道は残りました。この時代、静岡鉄道藤相線の地頭方と中遠線の新三俣の間が接続していなかったため、輸送効率が悪く乗客に不便をかけていました。この区間を結べば、東海道本線の藤枝と袋井の両駅に接続し、車両のやり繰りも融通が利くようになります。このため静岡鉄道では、終戦直後からこの両線を結ぶ連絡線の敷設、または路線の延長を計画していました。そこで静岡鉄道はこの軍用軌道の払い下げを受け、旅客線に転用しようとしました。ところがトロッコ用に敷設された軌道はあまりに急カーブが多く、単に改軌(600→762ミリ)しただけでは旅客輸送には適さなかったため、新たに線路を敷設し直すことになりました。こうして昭和22年12月日、新三俣〜池新田(後に浜岡町に駅名変更)間8.3kmの連絡線工事が竣工。翌23年1月20日から開業し、旅客輸送を開始しました。次いで池新田(浜岡町)〜地頭方間7.1kmも鋭意工事を進め、約7ヶ月遅れの昭和23年9月6日開通、この日より運輸開始となりました。ここに晴れて両線は一本に結ばれ、藤相線・中遠線は長年の悲願を果たし「静岡鉄道駿遠線」と改称されました。延長64.6kmの大軽便鉄道の誕生です。この路線は両端で東海道本線に接続し、駿河湾と遠州灘に面した御前崎に通じる鉄道として、多くの人々が注目しました。もし大手〜駿河岡部間が健在だったなら、その総延長は69.4kmに達したことになります。