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■■ 駿遠線こぼれ話 第八話 ■■

駅務は激務?


 駿遠線の職員は、乗務員さんも駅員さんも、皆明るくて親切でした。ことに駅員さんは駅の顔、町や村の顔で、暖かいサービスが心に残っています。また静岡鉄道は今でもトイレの掃除が行届き、どの駅も綺麗なのは伝統なのでしょうか。

 軽便鉄道だった駿遠線は、おもちゃのような列車を運転していましたが、安全規則や営業規則は国鉄(現JR)とほぼ同じでした。また連帯輸送をしていたので、駿遠線沿線から静岡・浜松方面はもとより、東京・大阪方面まで通しの切符が買えました。駅員さんは大きな駅にはたくさんいましたが、小さな駅では駅長さん一人でした。駅長といっても、仕事は超多忙です。タブレット交換や受渡し確認、ポイントの切換えや信号の現示といった運転関係業務。その間に切符や定期券を発売したり、手・小荷物を受渡したり集配したり、果ては便所掃除まで何でもしなければなりません。駿遠線は軽便鉄道としては列車本数が非常に多かったため、駅でたった一人の駅長さんは、いつも走り回っていなければならなかったそうです。

 駅には駅員さんばかりでなく、様々な仕事の職員がいました。地味な代表として、庫内手という仕事がありました。簡単に言えば、一晩中火を焚く仕事です。すなわち地頭方や新三俣の駅には、翌朝の列車が駐泊します。蒸気機関車の時代には、前夜からそのままでは火が消えてしまいます。そこで夜になると庫内手が出勤してきて、一晩中機関車の火を焚き、翌朝タンクに水を満タンにして帰って行きました。この仕事は、昭和27年に蒸気機関車が全廃されるまで続いたということです。

 一方、駿遠線では貨物輸送が盛んだったため、荷扱い専門の職員がいました。これらの人々は、現場では沖仲仕という専門用語で呼ばれていました。その仕事は新藤枝や新袋井の駅で、国鉄貨車から駿遠線貨車へあるいはその逆の、荷物や貨物の積換えでした。今のようにベルトコンベアーやリフトが発達していない時代です。荷物貨物積換え作業は、すべてこれらの職員が肩で担いで行っていました。たいへんな重労働で、そのためかこれらの人々は小柄でも力は強かったそうです。

 軽便鉄道の貨車というと小さく見えますが、広さにしてタタミ6畳は裕にあり、けっこう輸送力がありました。それでも載せ切れない大型貨物には、チ・チフというフラットカーがありました。これらは荷台に屋根もなければ囲いもなく、まったく平坦になっていました。これに大型貨物を載せたときは、職員が貨物の上に添乗していました。それは貨車に直通ブレーキがなく、列車は機関車のブレーキだけで止めなければならなかったからです。そこで重い大きな貨物を積んだ場合、貨車にブレーキをかけるために、職員が添乗していたのです。この仕事は暑さ寒さも去ることながら、雨の日など非常に危険なものでした。また別のやっかいな荷物では、当時相良付近に屠畜場があって、生きたままの豚や牛も駿遠線で貨車輸送していました。昭和32年頃、ある日20頭ほどの豚が職員の隙をついて逃げ出しました。これを捕まえるため職員総動員で探し回り、一晩中徹夜で捜索し、ようやく翌朝までに全頭捕獲されたということです。とんだトン走劇といったところです。


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