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■■ 静岡鉄道駿遠線車両史 その弐 ■■

【 藤相鉄道小史 】


(1)藤枝町の盛衰

 藤相鉄道は、藤枝と相良を結ぶ目的で敷設された、軌間762mmの軽便鉄道である。ここでいう藤枝は藤枝町(現藤枝市)大手のことで、江戸時代は田中藩田中城の城下町として、また旧東海道の宿場町(宿駅)として大いに栄えていた。大手・下伝馬はこの地方の経済の中心地でもあり、お茶やみかん等の集散地として、家々が軒を連ねて大繁盛していた。しかし明治22年に開通した官設鉄道東海道本線は、大手からはるかに離れた田圃の中(静岡県志太郡青島村前島)に設置された。当初東海道本線は、旧東海道沿いに宿場町の岡部・藤枝を通る予定だった。ところが途中の宇津ノ谷峠のトンネルとその前後が難工事で、しかも岡部宿を通るとかなり迂回することになる。このため大崩海岸線沿いに、用宗・焼津を通るルートに変更された。また旧藤枝宿の大手では、宿場の真ん中に危険な鉄道が通ると、建設工事に反対する動きがあった。町内は賛否両論で意見が対立し、反対派の住民はムシロ旗や竹槍まで用意したという。これに対して前島地区では熱心な誘致運動があり、駅建設用地に土地を寄付したり、線路用土地買収に協力したりして、鉄道当局に強く働きかけた。このため当時は戸数約174戸だった青島村前島の田圃の真ん中に、東海道本線の藤枝駅が設置された。

 一方焼津は市街地の近くに停車場が設置されたため、藤枝に集荷されたお茶やみかんなどの人荷の往来は、しだいに焼津に向け頻繁になっていった。鉄道に取り残された旧藤枝宿の大手では、せっかく集荷した生産物を、わざわざ焼津駅まで運んで出荷せざるを得なかった。このため明治24年、日本で最初の人車軌道敷設され、同33年頃まで営業していた記録が残されている。これは鉄道ではなく「木道」だったらしく、正式な線名も付けられていなかったという。

 その後人家がほとんどなかった東海道本線の藤枝駅周辺には、交通の便利さからしだいに市街地が形成され、繁栄は大手地区から前島地区に移っていった。このままでは時代に取り残されると、地元有力者たちは危惧していた。彼らをさらに不安に陥れたのが、駿遠鉄道の敷設計画である。これは焼津駅を起点とし、志太郡東南部を南下して大井川を渡り、遠州川崎・相良・地頭方・横須賀を経由し、東海道本線の中泉(磐田)に至る延長約72kmの一大軽便鉄道だった。同鉄道は明治44年8月22日に許可を得、翌45年5月、資本金80万円で発足している。このままでは藤枝の発展は1駅隣の焼津(駅間距離で6.6km)に奪われ、大手は時代に取り残されてしまう。また距離的にも距離も近い藤枝駅に、なんとか交通の便を確保したい。そこで藤枝町の有力者たちは、地元資本による鉄道敷設を計画した。

(2)藤相鉄道の創立

 藤相鉄道は15名の発起人により、長年の宿願であった鉄道敷設計画をまとめた。これを明治44年1月15日出願し、同年8月28日、先の駿遠鉄道の実に6日後に許可が下りた。これにより明治44年11月25日、藤相鉄道株式会社は資本金30万円で設立された。こちらは藤枝町大手を起点とし、青島・高洲・大洲・相川・吉田・遠州川崎・相良を結ぶものである。川崎・相良など榛原郡南部の町は、江戸時代は良港による海上交通によって栄えていたが、鉄道に取り残されたことにより、地元有力者たちは危機感を抱いていた。そこで藤相鉄道では関係者を熱心に説得し、しだいに多くの賛同者を得ていった。

 藤相鉄道と駿遠鉄道は、大井川以遠では計画路線が重複するため、両者の免許申請にあたり鉄道当局は調整に苦慮した。結果とりあえず藤相鉄道には大井川までと、対岸の大幡から遠州川崎までの免許を与えた。大井川橋梁は駿遠線鉄道に建設させ、藤相鉄道と「共同利用(乗入れ)」させる条件の命令書を付け加えた。当局のこの意図は、膨大な資金を要する大井川架橋により、資本金の少ない両者が共倒れとなることを防止するためだった。しかし鉄道当局の思惑をよそに、競合する両者は測量現場で衝突することもあった。熱心に工事を進める藤相鉄道に対し、資本金その他は優位に立つ駿遠鉄道側では工事が遅々として進まず、大正7年4月15日工事未完成により免許失効。さらにその後駿遠鉄道では会社内部で紛糾問題が発生し、鉄道建設を実現できないまま会社は解散している。

(3)路線建設の歩み

 藤相鉄道は第一期工事として、大正2年2月15日大手〜藤枝新(後の新藤枝駅とは別の場所)間2マイル23チェーン(約3.7km)を着工。切り通しや鉄道橋架設(瀬戸川)などの難工事ではあったが、9ヵ月後の同年11月16日に開業した。これで建設の第一目的、藤枝町の中心地(大手)から東海道本線藤枝停車場までの連絡の道が確保され、町民一同の歓迎のなか藤相鉄道は輸送を開始した。開業にあたって準備されたのが、ドイツのコッペル社製Bタンク機関車4両(1〜4号機)で、客車2両を牽引して運転された。開業区間は、大手・慶全寺前・岡出山(藤枝本町)・瀬戸川・志太・青木・藤枝新の各駅だった。志太と青木は、後の線路付け替え工事(藤枝新駅乗り入れおよび国道1号線改修)にともない廃止された。また岡出山は藤枝本町に駅名変更されている。

 第二期工事は大正3年2月15日、藤枝新〜大井川間4マイル20チェーン(約6.8km)を着工。東海道本線の乗り越え(立体交差)工事があったが、順調に同年9月3日開業した。この区間には、高洲・大洲・上新田・大井川各駅が設置された。終点の大井川駅は河川敷に近く、後に移設された駅とは位置が違っていた。近くには競馬場があり、草競馬や行楽の時期には賑わいをみせたという。しかしここからが問題で、行く手には越すに越されぬと歌われた大井川が、川幅約1,000mで横たわっていた。専用橋架設の資金はなく、藤相鉄道はこの大井川を渡ることができなかった。この時点ではやむなく駿遠鉄道の工事着工を命令書通り待ち、藤相鉄道は大井川の対岸で工事を始めた。

 これが第三期工事で、大正4年1月5日、大幡〜細江間3マイル68チェーン(約6.2km)を着工。約4ヶ月で完成し、同年5月1日開業した。この区間には、大幡(後に廃止)・遠州神戸・上吉田・下吉田・根松・細江各駅が設置されたが、下吉田はほどなく廃止されている。この時期、大正4年5月に中遠鉄道の4号機を譲り受け、藤相鉄道5号機とした。しかし約2年間使用しただけで休車となり、大正9年9月には売却している。

 第四期工事にあたる細江〜遠州川崎町間1マイル11チェーン(約1.8km)は、大正4年7月15日着工、約2ヶ月後の同年9月18日開業。この区間には後の昭和9年10月1日に静波駅が設置されている。また遠州川崎町は、後に榛原町に変更されている。

 第五期工事の遠州川崎町〜相良間3マイル60チェーン(約6km)の着工時期は不明だが、大正7年6月16日に開業。これで会社設立当初の目標だった大手・藤枝新・相良間16マイル23チェーン(約26.2km)が全通した。この区間には、片浜・太田浜両駅が設置されている。全線開業にあたり、大日本軌道製の6号機と7号機が、大正6年2月と同7年11月に増備された。藤相鉄道では1〜4号機と同じコッペル製を要望したが、第一次世界大戦の影響で入手できず、やむなく大日本軌道製の国産機関車を導入している。大正9年当時の保有車両は、蒸気機関車6両、客車14両、貨車は有蓋車22両・無蓋車7両、合計49両だった。この時期駿遠線鉄道は、すでに免許失効していた。

 一方大正8年、国鉄藤枝駅との連絡が不便だった藤枝新駅が、国鉄駅のすぐ北側(山側)に移転した。これは国鉄用地350坪(約1,150m2)を借地し、路線を一部変更(付け替え)して建設され、その際青木駅は廃止された。大手線は後にも昭和32年、国道1号線改修工事にともない線路移設を余儀なくされ、瀬戸川付近で大きく変更し途中駅志太を廃止している。

(4)大井川架橋史

 ここで藤相鉄道大井川越えの、苦難の歩みを振り返りたい。藤相鉄道は大井川の両岸、大井川駅と大幡駅まで開通したが、この間は徒歩連絡に頼らざるを得なかった。本来ならライバルの駿遠鉄道が鉄道橋を建設するはずだったが、いっこうにその気配はなかった。藤相鉄道は、大手〜藤枝新・藤枝新〜大井川・大幡〜川崎という3ブロックでの営業を余儀なくされ、その輸送効率は相当悪かった。また乗客が徒歩連絡で渡る富士見橋は、暑さ寒さ雨や風(遠州のカラッ風)の不評もさることながら、この時代なんと渡し賃を徴収する有料の私有橋だった。このことは乗客にとっても鉄道経営者にとっても頭痛の種だった。

 大井川町と対岸の吉田町を結ぶ大井川最初の橋は、明治18年3月に建設された国富(くにとみ)橋である。それに至る数百年来、江戸時代幕府が橋の建設を許さなかったのは江戸防衛のためも当然だが、橋梁建設技術未発達の影響もあった。名うての暴れ川である大井川には、いくら橋を架けてもすぐ流されてしまい、絶え間ない架け替え工事による財政負担はかなり大きい。事実国富橋は4年後には台風で流され、明治23年5月、ほぼ同じ場所に富士見橋が建設された。その橋も台風で流され、明治31年1月、新国富橋を建設。その橋もまた流され、明治35年5月に、新しい富士見橋が建設された。この富士見橋を、藤相鉄道の乗客たちが徒歩で渡っていたのだ。ちなみに有料橋の渡し賃は、明治39年当時の記録で人は2銭、牛馬5銭、人の乗っているカゴ7銭、荷車7銭5厘だった。

 藤相鉄道では打開策をいろいろ検討した結果、ついに大正4年有料の富士見橋を買収。当初は荷車で連帯輸送を開始したが、そのうち橋の半分にレールを敷いた。つまり上流側に人車軌道、下流側は従来通りの歩道とした。ここに認可を得て、大正4年7月21日から貨車の直通運転を開始。さらに同年11月11日から人車軌道の営業が開始され、藤相鉄道の乗客は徒歩で大井川を渡らなくても良くなった。たいへんなアイデアといえるが、川を渡る区間だけに約1.6kmの軌道を敷設、人車鉄道として別途営業した例は日本では他にない。ちなみに大手〜藤枝新間7銭、藤枝新〜大井川間11銭に対し、大井川〜大幡間の人車軌道は5銭だった。ここを徒歩で渡れば2銭で済んだ。

 大井川を渡っていた人車客車は、長さ約3.5m・幅約1.5m・自重約1tの、12人乗りの2軸客車。人車としては10枚窓(片側5枚)のかなり大型のもので、車丁といわれた車夫が数人がかりで押している。その苦労はたいへんなもので、大井川前後には25‰勾配(1,000分の25という上り坂)があり、乗客を乗せると1.5t以上になる客車を、3・4人がかりで必死に押し上げていた。橋の上は平らになるので、ここは2人ほどでゴロゴロと押して行き、下り坂は車体に取り付けられたブレーキを使いながら軽快に自走した。この時代機関士や車掌といった乗務員は徒歩で橋を渡り、対岸で待機している列車に再び乗務したという。また貨物は乗客のように乗り換えることができないため、橋のたもとまで蒸気機関車で押し、そこから車丁が貨車を押して渡った。前述の5号機は、実はこの区間に使用しようとしたが、橋が重量に耐えられず不可能となった。そこで止む無く本線に転用したが、あまりに動輪が小型だったせいか列車がたびたび遅れ、このため転売を余儀なくされたという。

 認可条件によると、この人車客車は本線にあたる鉄道線での運用はできず、強風や大水のときは運転を休止し、2台以上続行運転の場合は7間(約21m)以上の間隔を空けることが義務付けられていた。また仮橋専属の巡視員を置き、桁の接合箇所を監視して常に安全状態を保つよう求められていた。この人車区間は単線だったので、数台続行して橋を渡ると、反対側からの運行は少なくとも30分は不可能だった。人車の往復には40分〜1時間を要し、運行が混乱すると両側の鉄道線のダイヤをしばしば乱した。そこで会社では仮橋の中央部に複線区間を設け、双方から運転される人車の行き違い(列車交換)ができるようにした。これは大正7年6月23日申請、同年10月15日認可にて実施されている。この時も条件があり、待避線で待避できるのは、客車2両・貨車2両を限度とすべしというものだった。橋脚の過重負荷による陥落事故を恐れたものと思う。

 こうして苦労して大井川を越すことができたのもつかの間、大正11年夏の集中豪雨で、せっかくの富士見橋が流されてしまった。藤相鉄道は沿線町村に働きかけ、県当局と何度も折衝し、県道の新富士見橋に併用軌道敷設を出願した。これは橋の建設費の一部を負担し、橋の片側に線路を敷かせてもらったものである。ようやく大正13年4月4日、大井川〜大幡間1マイル1チェーン(約1.6km)が、橋梁上だけ軌道法(他は軽便鉄道法)の適用を受けて開業した。新富士見橋の完成とともに人車軌道は廃止されたが、日夜大変な労働を強いられてきた車丁たちは、目に涙を浮かべて喜んだという。このとき大井川駅は開業当初の富士見橋の近くから、約1km藤枝寄りの地点(大井川町相川)に移転した。一方大幡駅は、その役目を終えて廃止された。

 苦労の末直通運転は開始されたが、併用軌道は自動車との接触事故の危険性も絶えずあった。事実昭和7年2月ガソリンカー(キハ1)とトラックが衝突。キハ1が大きく傾き、多数の負傷者を出した。ようやく悲願の鉄道専用橋が完成したのは、昭和12年7月9日になってからである。このときも藤相鉄道は頑丈なコンクリート橋脚を建設する資金がなく、橋台(基礎部分)はコンクリート製であったが橋脚(橋桁を支える柱)は「木製」で、約1kmにおよぶ長大鉄道橋を木橋で架設した。それには約9mおきに松材などの丈夫な杭を打ち込み、大井川本流部分はさらにその間にマグイと呼ばれる補強用の杭を打ち込んでいた。それでも豪雨や台風で、しばしば杭が激流に流されたり、橋桁が落ちたりすることもあった。また強風で橋桁が橋脚から大きく揺れ、列車を通すのに危険な状態になることもたびたびだった。藤相鉄道が静岡鉄道になっても、この状態は変わりがなかった。鉄道関係者は橋が落ちるたび懸命に復旧し、軽便鉄道を守り続けた。また職員手製の風力計を橋の両手前に設置し、一定以上の風速は目で見て判断できるようにし、緊急時には列車を停止させたり運休したりして安全を守る努力を怠らなかった。こうして一人一人の職員が、必死の努力で軽便鉄道を安全に運行していた。

(5)藤相鉄道の躍進

 時代は戻るが、大井川を越え線路が一本に結ばれてから、藤相鉄道の営業成績はますます向上した。客貨とも順調に伸び、毎年黒字経営が続いた。沿線利用客からの評判も良く、職員も誇りを持って仕事に励んだ。この頃、大正12年10月にはコッペル製8・9号機を増備、これらは1〜4号機とまったく同形の機関車だった。予備機に事欠く状態ではなかったが、路線延長を見越しての先行投資だったかもしれない。また大手から先、宇津ノ谷峠にほど近い駿河岡部まで、2マイル74チェーン(約4.8km)の延長許可を得た。大正12年2月8日着工、同14年1月16日開業した。この間に大手側から、農学校前・水守・八幡橋・横内・駿河岡部の各駅が設置され、朝比奈川橋梁(木橋)も架設された。この先さらに県道の宇津ノ谷トンネルに併用軌道を敷設し、静岡方面に延長する計画もあったが、これはついに実現されなかった。

 一方相良から先も、大正13年7月に延長工事着工。相良〜地頭方間3マイル50チェーン(約5.8km)が、小堤山隧道掘削工事に苦労しながらも大正15年4月29日に開業。この間に、相良新(新相良に駅名変更)・波津・須々木・落居・地頭方の各駅が設置された。この開業により藤相鉄道は最大の路線をもつことになり、榛原郡南部地域の交通・経済・文化に長年貢献した。機関車もコッペル製10〜12号機3両を、大正14年4月に増備。直通運転列車の増加に対応している。これら3両の増備機は、これまでの同じコッペル製の6両より、若干ではあるが大型になっていた。

(6)経済恐慌の克服

 ところが昭和5年の経済恐慌を機に、静岡県全域にも不況の影響が押し寄せた。藤相鉄道でも経営を縮小して不況を乗り切る一方、進出する乗合自動車はじめ、戸口輸送を売り物にするトラックとも競争を迫られた。この頃お隣の中遠鉄道ではガソリンカーを導入し、煙のない汽車で速度の点でも乗合自動車を圧倒し、大成功を納めていた。好評を聞き藤相鉄道でもガソリンカーを3両導入、こちらも好成績を納めた。最初に導入されたのは日本車輌(日車)製キハ1〜3で、新製当初は千鳥式にクロスシートを備えていた。軽便鉄道にクロスシート車両は珍しいが、おそらく長距離旅客へのサービスと考えたらしい。しかし輸送力増加のため、やがて普通のロングシートに改装されてしまった。

 軽快で煙の出ないガソリンカーは好評なため、藤相鉄道は昭和11年に小型の片ボギー車、キハ4を増備した。この車両は加藤車輌製作所製で、大手線(新藤枝〜大手・駿河岡部間)専用車として使用された。また同じく小型の日車製キハ5を増備したが、こちらは普通のボギー車だった。さらに昭和16年、キハ1〜3の増備車をキハ7として導入した。このキハ7の性能はキハ1〜3と同一であるが、窓は2段上昇式となり、外観は若干スマートになった。ただしキハ6は欠番となっており、理由は不明である。

 せっかく延長した岡部線(大手〜駿河岡部間)ではあるが、不況の影響により旅客輸送の衰退が激しかった。開業から数年間は順調に営業してきたが、その後は予想に反し、期待していたみかん輸送をはじめ貨物輸送が振るわなくなった。旅客も朝夕の通勤通学客以外は、日中は1人も乗らない日が続いた。加えて朝比奈川橋梁の傷みが激しく、多額の補修費をかけても採算が合わないことが判明した。藤相鉄道は経営合理化のためついに岡部線廃止に踏み切り、昭和11年5月19日、大手〜駿河岡部間4.8kmを廃止した。開業からわずか13年ほどのことだった。

 合理化を果たした藤相鉄道は、全社一丸となって不況克服に努力した。乗客に乗車距離に応じて煙草のサービスをしたり、駅長といわず機関士といわず、全従業員が一人でも多くの乗客を獲得するため勧誘に歩き回った。一方で効率の悪い蒸気機関車を、昭和10年7月に一挙に5両も廃止した。廃車となったのは2・3・4・6・7号機で、1号機は予備機として残されたが、昭和12年11月に廃車届けが出された。輸送効率向上のためガソリンカーを増備し、将来的にも動力車両の中心として輸送力増強と合理化を果たそうとした。また線路増強・橋梁整備にも意欲を燃やし、大井川の新富士見橋の上流側に鉄道専用橋を架設し(前述)、昭和12年7月に完成。接触事故の危険があった併用軌道を解消している。また鉄道の表玄関ともいえる藤枝新駅を改築し、昭和13年10月に落成している。ただし駅名が藤枝新から新藤枝になったのは、昭和31年になってからである。

(7)静岡鉄道との合併

 ようやく不況を脱出し、業績も安定化したのもつかの間、日本は昭和16年12月から太平洋戦争に突入した。国民生活はしだいに窮乏化し、物資が不足して配給制度が取られるようになった。蒸気機関車の燃料も不足したが、なによりもガソリンカー用のガソリンが底をついた。このため昭和17年3月26日認可により、ガソリンカーを代燃装置取付車に改造した。代燃装置とは、木炭や薪から発生するガスを利用して動力とするもので、出力が弱く定時運行は不可能となった。また男子は次々に軍隊に召集され、藤相鉄道でも男子に代わって女性車掌や女性駅長が見られるようになった。輸送使命はますます向上し、沿線の各駅から出征兵士が戦地に見送られ、一方戦死した兵士の遺族が遺骨を出迎える姿が多く目にされるようになった。この時代背景により、陸上交通事業調整法が施行された。同法に基づき昭和18年5月15日、静岡電気鉄道(母体)・藤相鉄道・中遠鉄道・静岡乗合自動車・静岡交通自動車の5社が合併。秋葉鉄道もこの時すでに静岡電気鉄道に合併されており、ここに「静岡鉄道株式会社」が誕生した。旧藤相鉄道は静岡鉄道藤相線と名称が変更され、藤の花をかたどった社章と共に長い歴史から消えていった。


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