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■■ 静岡鉄道駿遠線車両史 その参 ■■

【 中遠鉄道小史 】


(1)中遠鉄道の創立

 中遠鉄道は、袋井を起点に磐田郡や小笠郡といった中遠地方を結んでいた軽便鉄道で、軌間762mmの非電化軽便鉄道だった。中遠南部地方の、浅羽・大須賀といった町村は豊かな穀倉地帯ではあったが、交通の便に恵まれてはいなかった。一方袋井にも官設鉄道東海道本線が開通した際、停車場は旧東海道袋井宿から、原野谷川をはさんだ対岸の高尾地区に建設された。日増しに栄えてゆく同地区を見るたび、関係者の思いは複雑だった。これに輪をかけるように、駿遠鉄道敷設計画が発表された。説明によると、同鉄道は東海道本線焼津駅を起点とし、川崎・相良を経て遠州灘沿いに西進し、小笠郡・磐田郡を通って袋井の隣の東海道本線中泉(現磐田)駅に至る計画であった。袋井と磐田は、今でも東海道線で1駅(駅間距離7.8km)である。このままでは袋井は発展から取り残され、さらに寂れてしまう危険性もあった。これに衝撃を受けた中遠南部地方の有力者たちは、鉄道建設に強い意欲をみせた。そこで発起人13名により、明治44年10月10日「中遠鉄道敷設許可申請書」を提出。翌45年3月9日に許可を得、大正元年8月28日、中遠鉄道株式会社が設立された。資本金は10万円だったが、当時は米1俵5円、製茶1貫目(約3.75kg)1円50銭から2円の時代。1株50円を払い込むのに米10俵、10万円なら米2万俵に相当した。このため株主の約80%は1株株主で、その多くは地元中遠地方の人々であり、いかに鉄道に対する期待が大きかったかよくわかる。

(2)中遠鉄道工事史

 中遠鉄道は鉄道線路工事認可を大正元年9月16日申請。同年10月22日に許可を得て、用地買収を開始した。ところが土地買収のトラブルが発生し、敷設認可後も数ヵ月間工事着工できない事態が発生した。これは建設費のコストダウンを目論む会社側と、沿線住民の利害が複雑にからんで発生した。たとえば鉄道建設予定地が水路と交差する箇所では、近隣に水害の発生する恐れがあり、その問題は深刻だった。会社側は紛争関係者が株主で、たとえ1株といえど権利を有していればその発言力を無視できず、工事を順調に進めることはできなかった。中遠鉄道は関係町村とたびたび協議を重ねて粘り強く交渉し、ようやく妥協点を見い出し、最初の敷設計画を一部変更して着工にこぎつけた。

 こうして大正2年4月7日、ようやく袋井新〜新横須賀間6マイル21チェーン(約10.1km)の敷設工事が開始された。平坦な地域だったため工事は順調に進み、約8ヵ月後の同年12月25日に竣工した。そして大正3年1月10日に営業開始許可が下り、翌11日に開通式が行われた。沿線住民にとっては、まさしく文明開化の思いだったことだろう。長い紛争で建設が遅れた中遠鉄道は、こうして大正3年1月12日より運輸営業を開始した。開業区間は、袋井新(東海道本線袋井駅とやや離れた地点)・柳原・諸井・芝・浅名・新岡崎・新三輪・七軒町・新横須賀だった。この区間には後の大正4年5月11日に五十岡・石津が、さらに昭和5年12月24日には新川西貨物駅が開業した。

 このとき用意されたのは、イギリスのバグナル社製のB形サイドタンク式蒸気機関車4両(1〜4号機)だった。日本ではドイツ製の機関車が多用され、隣の藤相鉄道でもコッペル社製を揃えていた。イギリス製の機関車は軽便鉄道用としては珍しく、重量5.75tと小型で動輪径も1フィート7インチ(約483mm)しかなく、わが国の軽便鉄道用機関車としても最小の部類に入る。これは路線が平坦であり、営業距離もさほど長くないことから、燃費を考えての選択だったかもしれない。この当時客車は6両で、貨車は有蓋車6両、無蓋車3両。これらが1日12往復し、所要時間は約43分だった。開業当時は機関車に余裕があり、このため大正4年5月に隣の藤相鉄道の求めに応じて4号機を譲渡し、同機は藤相鉄道5号機となった(この件、藤相鉄道小史にも記述)。

 路線延長工事は大正14年3月31日、新横須賀〜南大坂間が竣工。同年4月7日より開業した。開通区間は新横須賀より、河原町・野中・野賀・南大坂だった。この区間には、谷口が大正14年12月1日に、やや遅れて開業した。一方起点の袋井でも、東海道本線袋井駅構内に乗り入れ線の許可を得、大正14年4月6日(南大坂まで開業の前日)に延長されて移転し、駅名も社袋井(後に新袋井)駅とした。これで国鉄(当時省営)との接続が便利になり、路線は南大坂延長とともに9マイル79チェーン(約16.1km)となり、業績はますます向上した。このため機関車が不足気味となり、福井県の南越鉄道(武岡軽便鉄道→福井鉄道南越線:廃止)からコッペル製の2号機を譲り受けた。これが二代目4号機として活躍し、静岡鉄道合併後は13号機に改番された。

 路線延長は続き、大正15年3月30日南大坂〜新三俣間の工事着工を申請、同年5月28日許可。いよいよ最終工事が始められ、昭和2年4月1日、新袋井〜新三俣間全長10マイル65チェーン(約17.4km)が全線開通した。他に交通機関がない時代だったので、中遠鉄道は沿線の人々に大いに利用され、愛用され親しまれた。たとえば蒸気機関車の煙突がラッキョウに似ていたため、ラッキョウ軽便という愛称で呼ばれた。当時中遠鉄道は全線を約1時間で運行し、45人乗り客車を2〜3両連結していたが、朝夕のラッシュ時などは定員の2〜3倍を詰め込んで運転されていた。

(3)合併までの歩み

 ようやく経営も軌道に乗り、旅客・貨物輸送とも順調に伸びていたが、ここにも昭和恐慌の波が押し寄せてきた。中遠鉄道では、勃興しつつある乗合自動車から軽便鉄道を守るため、自社で乗合路線を運営してきた。他社の進出を防ぐため自社の乗合自動車(バス)の運行回数を増やすと、鉄道の利用客が減少する。これに対抗するため、中遠鉄道では他社で評判の良かったガソリンカーを導入する決意をした。しかし車両技術も内燃機関(エンジン)技術も未発達だった当時、中遠鉄道のような軽便鉄道に適した優秀かつ故障の少ないガソリンカーを選ぶことは、決して容易ではなかった。ようやく東京の松井自動車工作所というメーカーを探し当て、日本で初の片ボギー式ガソリンカー(キハ1)の製造を依頼した。片ボギー式というのは、2軸と4軸台車(ボギー)を組み合わせた車両で、動力伝達は固定された2軸側に行う。簡単な構造で使いやすく、乗り心地も割合に良い車両で、一時小型内燃客車に多く使われた。様々な試行錯誤のうえ昭和4年4月、1号機ともいえるキハ1が中遠鉄道に到着。車両メーカーの技師が出張し整備が慎重に行われ、試運転では終点までたどり着けるかと心配されたが、キハ1は故障も事故もなく快調に走った。この大成功により、その後2号機ともいえる同形増備車のキハ2も到着。これら新型ガソリンカーは、新袋井〜新横須賀間を乗合バスで35分かかるところを28分で運転。また1日12往復を、22往復に大増発した。この甲斐あって、煙の出ない軽便鉄道が走るという評判が高まり、一時乗合バスに流れていた乗客数は著しく増加に転じた。好評につき、昭和10年さらに1両増備、キハ3とした。東亜工作所というメーカー製で、こんどは小型ながら片ボギー式でなく、ボギー式の車両だった。正面3枚窓で、車体両端に鮮魚台(デッキ)をもち、客室窓は2段上昇式という戦前では近代的スタイルの車両だった。

 中遠鉄道では経営安定化をはかるべく、昭和6年11月15日に荷物運送取扱い業や、倉庫業の営業を開始した。また翌7年5月には貨物自動車運輸の営業許可を取り、懸命の増収対策に乗り出した。様々な努力の結果ようやく経営も安定し、昭和17年7月5日には会社創立三十周年を記念して祝典と物故者慰霊祭を盛大に挙行し、中遠鉄道三十周年記念誌も発行されている。しかし一方で戦雲はますます激しく立ちこめ、沿線にも戦争の影響が強く現れるようになった。ついに中遠鉄道は、昭和18年5月15日陸上交通事業調整法に基づき、藤相鉄道とともに5社合併し静岡鉄道の一員となった。


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