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■■ 静岡鉄道駿遠線車両史 その四 ■■

【 静岡鉄道駿遠線小史 】


(1)静岡鉄道とは

 静岡鉄道は前述のように、陸上交通事業調整法に基づき昭和18年5月15日、静岡電気鉄道・藤相鉄道・中遠鉄道・静岡乗合自動車・静岡交通自動車の5社合併により誕生した。その母体となった静岡電気鉄道だが、実はその前身にあたる初代静岡鉄道(大日本軌道静岡支社)は、明治41年12月9日開通の軽便鉄道で当初蒸気機関車運転だった。
清水港と静岡を結ぶ交通は、製茶事業の発展とともに高まっていった。これに眼を付けたのが、軽便鉄道王と呼ばれた雨宮敬次郎である。彼は地元関係者とともに静岡鉄道株式会社(初代)を設立し、また日本各地に軽便鉄道を敷設するとともに、資本系列にあった全国8社を統合。大日本軌道として合併させ、静岡鉄道は大日本軌道静岡支社となった。開通当初の静岡鉄道は軌間762mm、全線単線の軽便鉄道で、小型蒸気機関車が客車1両を牽引して運行していた。その後清水港からの輸出が活発になると、単線の軽便鉄道では輸送需要を賄いきれなくなった。このため地元資本で大日本軌道静岡支社の全施設と経営権を買収し、社名を駿遠電気株式会社とした。新会社では軌間を762mmから旧国鉄並みの1,067mmに改軌し、併せて全線の電化工事を進めた。不況下の難工事ではあったがこれを完成し、同社は電力供給業や製氷業に業務を拡大した。さらに秋葉馬車鉄道を前身とする秋葉鉄道と合併し、社名を静岡電気鉄道株式会社に変更した。その後静岡市内線、清水市内線を開通させるとともに、10年以上かけて静岡清水線を全線複線化した。この改軌・電化・複線化の努力が実り、同線は静岡県の民営鉄道唯一の全線複線路線として、今日もオールステンレスカーを運転して繁栄している。一方、静岡鉄道株式会社(二代目)に合併した他の路線は、駿遠線をはじめ全て廃止されてしまった。ちなみに全国的に有名な民謡「ちゃきり節」は、実は静岡電気鉄道が開園した狐ケ崎遊園地の、コマーシャルソングであった。

(2)静岡鉄道藤相線と中遠線

 静岡鉄道合併後藤相鉄道は静岡鉄道藤相線、中遠鉄道は静岡鉄道中遠線と名称を変えたが、実態は合併前とそう変わらなかった。軌間762mmで全線単線・非電化の軽便鉄道は輸送力が乏しく、バスの進出で利用客は少なく、両線とも沿線は輸送需要の乏しい農村地帯だった。このため社内では「やっかい者」扱いされる気配すらあった。しかも戦局が拡大するにつれ物資が乏しくなり、食料品をはじめ全ての品物が配給制に移行された。蒸気機関車の燃料の石炭も配給制となり、質の悪い亜炭・褐炭が多く混じるようになり、大量に発生する炭殻の割には著しく火力が不足した。このため列車は各駅に10〜15分は停車して蒸気を上げなければ発車できず、それでも最終列車が終点に到着するのは翌朝になることもあった。また大量の煙を上げながらノロノロ走る軽便列車は、敵機の機銃掃射の的になりやすく、乗客は緊急停車した車体の下に逃げ込むこともあった。敵機来襲の際機関士が気を利かせ、列車を林のなかに停めホッと一息ついていると、付近の住民から機関車の吐く煙が敵機の目標になると苦情が来たこともあった。
ところが第二次世界大戦が終戦となり、静岡鉄道藤相線・中遠線は思いがけず蘇った。平和を取戻した沿線に、買出し客がドッと押寄せたのだ。このとき最大のライバルであるバスは燃料統制が続き、身動きできない状態だった。ことに中遠線は戦災を受けなかったため、戦後の窮乏時代にも車両はフル稼働し、創業以来かつてないほどの盛況を示した。また両線の沿線が、イモをはじめとする農産物(中遠線)や、塩や魚介類などの海産物(藤相線)が豊富な食料生産地帯だったため、静岡をはじめ名古屋・関西方面からもおびただしい買出し人や闇商人などが殺到した。当時は激しいインフレで貨幣価値などない時代だったので、人々は衣類など身の回りの物を持参し農家で米・麦・サツマイモ・切り干しイモなどと交換し、これ以上持ちきれないほど担いで帰宅していった。連日人々は両線に殺到し、収拾がつかないほどの大混雑ぶりを示した。超満員の乗客はデッキはおろか車外にまでぶら下がり、ガラスのない窓からも出入りし、まるで車体がふくらんで見えたという。客車だけでは足りず、有蓋車・無蓋車などの貨車も連結したが、さらに買出し客は機関車の上にまで乗るほどだった。車外の人々は、機関車の煙突から降りかかってくる火の粉をじっと我慢した。それでも列車に乗り切れずついに駅で夜を明かしたり、農家の軒先で一夜を過ごしたりした。乗客も鉄道職員も皆、生きるために必死の時代だった。

(3)静岡鉄道駿遠線の誕生

 この時代、藤相線の地頭方と中遠線の新三俣の間が接続していなかったため、輸送効率が悪く乗客に不便をかけていた。この区間を結べば、東海道本線の藤枝と袋井の両駅に接続し、車両のやり繰りも融通が利くようになる。このため静岡鉄道では、終戦直後からこの両線を結ぶ連絡線の敷設、または路線の延長を計画していた。ちょうどこの区間には旧日本陸軍の遠江射撃場があり、戦時中に弾薬輸送用トロッコ専用軌道(軌間600mm)が縦横に敷かれていた。静岡鉄道はこの軍用軌道払い下げを受け、旅客鉄道線に転用しようとした。ところがトロッコ用に敷設された軌道はあまりに急カーブが多く、単に改軌しただけ(600→762mm)では旅客輸送に適さなかった。このため新たに線路を敷設し、昭和22年12月29日、新三俣〜池新田(後に浜岡町に駅名変更)間8.3kmの連絡線工事が竣工。翌23年1月20日から開業し、旅客輸送を開始した。池新田(浜岡町)〜地頭方間7.1kmも鋭意工事を進め、約7ヶ月遅れではあるが昭和23年9月6日開通、この日より運輸開始となった。ここに晴れて両線は一本に結ばれ、藤相線・中遠線は長年の悲願を果たし「静岡鉄道駿遠線」と改称された。日本一の軽便鉄道、延長64.6kmの誕生である。この路線は両端で東海道本線に接続し、駿河湾と遠州灘に面した御前崎に通じる鉄道として、静岡県民はじめ多くの人々の注目するところとなった。もし大手〜駿河岡部間が健在だったなら、その総延長は69.4kmに達したことになる。

(4)活躍した車両たち

 いちやく長大路線となった静岡鉄道駿遠線は、食糧難時代のすさまじい旅客輸送需要とともに、沿線から出荷される貨物輸送の需要も大きいものがあった。このため車両不足をきたし、あちこちの軽便鉄道から使用可能な客車などの車両をかき集め、それでも不足の車両は自社工場で製造したり改造したりしてまかなっていた。昭和25年当時の保有車両は、蒸気機関車13両、内燃客車9両、客車26両、貨車は有蓋車29両・無蓋車26両、合計103両で最多の時期であった。

 この時代の主力は、まだ蒸気機関車だった。たとえば中遠線新三俣以遠の延長工事用という名目で、昭和19年4月11日に、栗原鉄道のB81を譲り受け中遠線5号機とした。この機関車の外観はコッペル製そっくりだが、実は日本車輌がコッペルを模倣して製造した国産機で、B型のサイド・ボトム式タンク機関車だった。次いで、同じく国産の立山重工業製の8トンB型タンク機関車を2両、15・16号機として導入した。この機関車は戦時中に設計されたが、戦後の昭和23年になって製造後入線。新造機関車として昭和20年代に活躍し、15号機はB15として藤枝市郷土博物館に保存されている。蒸気機関車は先の昭和22年9月に、栗原鉄道よりC121とC122を譲り受けている。両機は雨宮製作所製12トンのCタンク式で、駿遠線としては最初で最後の大型機関車だった。これらは栗原鉄道の番号を踏襲していたが、立山重工製15・16号機入線を機に、17・18号機と命名された。しかし路線が平坦な駿遠線では大型機関車はもてあまし気味で、早々に売却されたという。また蒸気機関車は徐々に時代に合わなくなり、駿遠線では、昭和27年に予備1両を除き全機関車とも使用取り止めとなった。

 蒸気機関車は薪に点火してから徐々に石炭を燃やし、蒸気が上がり始めてから運転可能になるまで1時間以上を要し、機関士と機関助手2名がかりで運転しなければならない。また所々で水を補給しなければならず、石炭の燃え殻の始末もしなければならない。燃料の石炭は高騰し、各地の鉄道は悲鳴をあげていた。そのなかライバルのバスが復興し、ディーゼルエンジン車も登場した。それまでのガソリンエンジンは、揮発性が高く爆発の危険もあるガソリンを燃料とし、大量輸送機関に必要な定格出力を得ることが難しかった。ところがディーゼルエンジンは揮発性が低く安全な軽油を燃料とし、十分な定格出力を得ることができた。このため鉄道車両への搭載が盛んに研究され、各地の鉄道で「再生」ディーゼル機関車が誕生した。その手法というのは、廃車された蒸気機関車の足周り(台枠・動輪等)を生かし、蒸気機関をそっくりディーゼル機関(エンジン)に載せ換えるというものであった。そこで静岡鉄道でも昭和26年、自社の大手工場で試作することになった。その一番手としてコッペル製7号機の足回りを利用し、自重約7トンのB形ディーゼル機関車を製造、これをDB601と命名した。結果は良好で、静岡鉄道はこの成功に気を良くし、12号機からDB602、6号機(旧8号機)からDB603を製造した。こうして次々と自社工場製のディーゼル機関車を製造し、その増備は昭和29年まで続けられ、合計9両(DB601〜609)が誕生し活躍した。それらの機関車は1両1両スタイルが異なり、独特の形状から蒙古の戦車という渾名を頂戴した。またこれら機関車は変速機はあるが逆転機がなく、バックは1段ギアでしか走れなかった。このため終点では必ずターンテーブルに乗せ、向きを変えなければならなかった。このことから、現場ではイノシシ機関車(一方向にしか走れない)とも言われていた。

 一方大活躍をはじめたのが、内燃客車である。代燃機関を戻すだけでなく、しだいにエンジンをディーゼル機関に換装し、燃費低減とともに高性能化していった。藤相鉄道・中遠鉄道からの引継車9両だけでは足りなくなり、他の廃止された軽便鉄道から車両を譲り受けて増備に努めた。まず赤穂鉄道が国鉄赤穂線開通により廃止になると、同線のカ6をキハD10として入線させた。これに先立ち車両記番法を、片ボギー車はキハC、ボギー車はキハDという命名法に改めている。次いで瀬戸内の鞆鉄道が廃止されると、同線のキハ3〜5を引き取り、キハ3→キハD11、キハ5→キハC12、キハ4→キハC13とした。キハC13はその後、窓2枚分車体を延長してボギー車に改造し、キハD13となった。しだいに軽快な内燃客車が増えたので、昭和31年には新藤枝〜地頭方間で快速列車を運転開始。新袋井〜新三俣間でも、昭和33年から快速列車の運転を開始した。

 この頃世の中は落ち着き、もはや買出しなど過去のこととなったが、一方で朝夕の通勤ラッシュが始まるようになった。駿遠線沿線からは新藤枝乗換えで静岡方面、新袋井乗換えで浜松方面に多くの通勤・通学客が利用するようになった。混雑が続き、相変わらず車両増備が必要だったが、ちょうど良い車両はなかなか入手できない。そこで駿遠線では、本線ともいえる静岡清水線の長沼工場に技術協力を求め、自社工場で内燃客車製造を試みた。当時は袋井・大手両工場で、優秀な技術者をかかえていた。両工場は客車の新製・改造などの実績があり、ハ101〜112の12両を完成させている。そこで昭和34年、最初に袋井工場で静鉄電車21形に似た湘南形の内燃客車、キハD14を完成させた。この車両は初めての内燃客車にしては上出来だったので、翌昭和35年には袋井工場でキハD15と、大手工場でキハD16の2両を完成させた。さらに翌年昭和36年になると、大手工場(車体製造)、袋井工場(下回りおよび組立)総動員で、キハD17〜20まで4両を完成させた。車体だけでなく台枠から完全新製の内燃客車を1年間で4両、全て自社で製造した記録を持つ軽便鉄道は他に例を見ない。これもまさに日本一といえる。

 特筆すべきは、昭和40年袋井工場製のDD501形ディーゼル機関車である。これはわが国の軽便鉄道ではまれな箱形ボディーをもつD形機関車で、両運転台で電車用台車を利用して強力なエンジンを備えていた。その活躍は目を見張るものがあり、朝夕のラッシュ時には線路容量いっぱいの4〜5両の客車を牽き、満員の乗客を軽々と輸送していた。この頃が駿遠線の最盛期であったといえる。しかしこの時期すでに駿遠線は分断され、旧藤相線・旧中遠線に二分されていた。旧藤相線側(新藤枝〜堀野新田間30.2km)で活躍したDD501形は、当初は3両製造が予定されていたが、1両だけしかも約5年の生命になるとはだれも予想していなかった。

(5)静岡鉄道駿遠線の衰退

 ラッシュ時対応の車両増備に追われながらも、駿遠線を取り巻く環境は徐々に変貌していた。それは着々と進む道路整備と、豊かさの象徴といえるマイカーの急速な普及である。朝夕は満員の乗客があっても日中はガクンと数少なくなり、ことに新規開通区間の地頭方〜新三俣間の落ち込みが激しかった。さらに貨物輸送は戸口から戸口に運べるトラックの進出により、かつての盛況がウソのように落ち込んでいった。静岡鉄道では防衛策として、駿遠線運送株式会社(日通系)を昭和26年2月15日設立し、混合列車を廃止した。その後は小口輸送のみ取扱ったが、昭和34年5月15日には鉄道貨物輸送廃止を申請し、同年6月1日から実施された。これにより貨車は全て不要になり、工事用のものを除いて大半が廃車もしくは放置されていった。
駿遠線沿線は豊かな農村地帯ではあったが人口は少なく、またこれといった大きな町もなく、市といえば両起点の藤枝と袋井くらい。沿線人口にも伸びはなく、他の地域ではよく行われた大規模工業開発もなく、観光資源といっても御前崎くらいだった。静岡・浜松への通勤圏としても中途半端で、ベッドタウンとしての開発も期待できなかった。ここにマイカーが普及し、昭和44年2月の東名高速道路開通がトドメを刺した。たとえば相良・地頭方といった榛南地方の人々は、東名高速道路の吉田IC(インターチェンジ)から静岡ICまで短時間に移動できるようになり、さらに東京方面に直接足を延ばすことも可能になった。小笠・浅羽地方の人々も同様で、整備の進む国道・県道に未舗装区間はなくなり、浜松や名古屋方面への移動に高速道路の恩恵を受けることもできるようになった。
加えて、駿遠線は施設の老朽化という問題もかかえていた。戦後の混乱時代稼ぎ頭となった駿遠線は、戦災で疲弊した静岡鉄道の他の路線の復興と発展を助け、車両も線路も無理に無理を重ねて酷使されていた。なかでも大井川橋梁は限界に近づいていた。この間に改軌や電化の検討もされたが、多額の工費に比べ、沿線人口の増加等による輸送需要の大幅な伸びは期待できなかった。車両も軽便鉄道ゆえ車両限界が小さく、バス並みの収容力しかなく、扇風機や冷房機といったサービス機器搭載のスペースすら無かった。これに対しバスの発達は目覚ましく、たとえば静岡(新静岡ターミナル)と御前崎(サンホテル)を東名高速経由で直結する、冷暖房完備の観光高速バス路線に乗客が集まった。その結果この線は増便に増便を重ね定期高速(特急)バス路線として発展し、今日に至っている。

(6)全線廃止への道のり

 静岡鉄道駿遠線は、マイカーやトラックの普及や自社の路線バスの発達により、しだいにその輸送使命が終盤に近づいていった。たとえば大手線は、平行する自社の路線バス(中部国道線)が静岡市内に直結し、急行便や準急便も運転されるなどその輸送力は比較にならなかった。また最後に開通した連絡線は、もともと砂丘地帯で人口が少なかった上、軍用軌道を転用したためわずかの人家や集落も避けて通っていた。もともとこの区間を通しで乗る乗客などおらず、直通列車の運転本数もしだいに削減されていった。このため日中は乗客ゼロの日が続き、駅でも印刷された乗車券の常備はなく、ペン書きで対応していた。

 ついに駿遠線は、昭和39年9月26日に新藤枝〜大手間3.9kmと、堀野新田〜新三俣間13.1kmを第1次として廃止した。やや纏まった乗客数のあった、堀野新田〜地頭方間2.3kmは残された。戦後開通した連絡線区間が廃止され、駿遠線は再び旧藤相線区間と旧中遠線区間に分離されたが、線名はそのままに残された。また廃止されたはずの堀野新田〜新三俣間の線路もすぐには撤去されず、ときおり回送車両がこの線を通って両線を行き来した。このとき大手にあった車両工場も閉鎖されたが、工作機械類を相良に移し、工場を新設した。当時製造途中だったDD501形機関車も、台枠や車体などを貨車で相良に輸送し、最終的に相良工場で組立てた。試運転も相良付近で行った。しかし竣工届は、書類上の手続きとして袋井工場製となっている。

 分離後の両線はそれなりに活気を保っていたが、夏季には海水浴輸送という目玉がある旧藤相線に比べ、旧中遠線はジリ貧に近い状況だった。会社でも新規投資は行わず、車両もDB形ディーゼル機関車をはじめ、年式の古いものが集められた。この時点で旧中遠線の運命は決まっていたと言える。そして昭和42年8月27日、第2次廃止として、新袋井〜新三俣間17.4kmが長年の活躍に幕を下ろした。

 旧藤相線はそれなりの盛況が続いたが、大井川橋梁がネックになっていた。制限10km/hの最徐行を余儀なくされていたが、それでも強風のときは運転中止となり、乗客はバスで代替輸送したり富士見橋を歩いて渡ったりした。この区間の明るい話題としては、夏季臨時列車の海水浴快速列車運転があげられる。波がおだやかで遠浅な静波・相良の海水浴場は、遠く首都圏の人にまで知られるようになった。時代も豊かになり、夏場は海水浴客が殺到した。この時期が駿遠線最後の稼ぎ時だった。海水浴快速は前後の内燃客車の間に客車を挟み、4両5両といった長大なものも出現した。停車駅は普通の快速列車と異なり、新藤枝〜大井川の各駅に停まり、以遠ノンストップで静波海水浴場に近い榛原町に直行。さらに相良まで足を延ばす便もあり、午前中下り2本、午後(夕方)上り2本が、満員の乗客を乗せ運転されていた。

 旧藤相線の収支は悪化していなかったが、寿命を縮めたのが大井川橋梁であった。もはや補修の限界に達し、架け替えは当然資金難で不可能。残された道は廃止しかなかった。こうして昭和43年8月21日に、大井川〜堀野新田間23.9kmが、第3次として廃止された。残された全線のほとんどを失う規模の廃止ではあったが、現場職員は最後まで安全輸送を完遂し、鉄道職員としての使命を全うした。

 残された新藤枝〜大井川間6.3kmは年式の浅い車両を結集し、最後の運転を行っていた。終点となった大井川で代行バスに接続し、キップや運賃は通しで計算・発行されていた。しかしもともとこの区間のみに輸送需要があるわけではなく、その主体は大井川以遠からの乗客だった。バスから軽便列車への乗換えはしだいに敬遠され、合わせて車両や施設に寿命と投資限界が近づき、ついに刀折れ矢尽きた。最後の区間の廃止は昭和45年7月31日(第4次)で、このとき多くの人々が総出で軽便鉄道の最後を見送った。お別れ列車は内燃客車2両が客車1両を挟み、蛍の光を流しながら沿線の人々に最後の別れを告げた。こうして静岡鉄道駿遠線は長い歴史に最後の幕を閉じ、永遠に消えていった。


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