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■■ 駿遠線全車両ガイド その四 ■■
【 客 車:PC/藤相鉄道・中遠鉄道・静岡鉄道 】
客車にも、a.旧藤相鉄道・中遠鉄道からの引継車両と、b.他線からの転入車両、さらに、c.自社製造車両がある。
大きく3グループに分けられるが、車番でグループ分けすることは難しく、引継車の途中に転入車が入ったりする。それらは全てボギー車で、軽便鉄道特有の2軸車は存在しなかった。スタイルはいかにも軽便鉄道といったダブルルーフの木造車から、全鋼製のスマートな自社製造車両まで全部で41両在籍し、なかには蒸気機関車・ディーゼル機関車・ディーゼルカーと三代にわたる動力車に牽引されたものもある。
旧藤相鉄道・中遠鉄道では2等級の客車があったらしく、中遠鉄道にみられる「ロボ」という記号は、ロ:旧2等、ボ:ボギー車を示す。この当時は3等級制で、イ:1等車・ロ:2等車・ハ:3等車を示していた。他社からの転入車両で特長的なのは、旧草軽電鉄から転入した3両で、これらは自社製造車3両とともに最後の日まで活躍した。駿遠線の自社工場では台枠からの完全な客車新製とともに、古い木造客車の鋼体化改造も行われた。また内燃客車のエンジンを取り外して客車化したり、他社からの転入車の改造も行っていた。別の特長は荷物合造客車「ハニ」の存在で、独特のスタイルは人気も高い。
@ ハ1〜3
旧中遠鉄道からの引継車で、旧車番はボ1〜3。大正2年、大日本軌道製の小型木造車客車。車号からして、普通車に当たる3等車として製造・使用されたらしい。妻面3枚窓で両端にデッキが付き、側面は窓8枚。後年改造により客室扉が付き、オープンデッキ車から普通の箱型客車になった。またハ2は窓も2段上昇式に改造されたため、1段下降式のままのハ1・3とは異なる印象の車両となった。
最大寸法8,128×1,929×2,904mm、自重3.5t、定員48名(座席14名)で白熱灯。アーチバー式台車を履き、車輪径は508mmで、いかにも軽便鉄道らしいスタイルの小型ボギー客車だった。
Aハ6
元安濃鉄道ホキ3を中遠鉄道が購入し、ロボ8として使用していたが、静岡鉄道合併により駿遠線ハ6となった。大正3年、名古屋電車製作所製の木造小型客車。車号から当初中遠鉄道では2等車として使用し、その後3等車として使用されたらしい。妻面3枚窓で両端にデッキが付き、側面は窓10枚のため、窓幅はやや狭くなっていた。
最大寸法7,569×1,829×3,061mm、自重3.0t、定員40名(座席26名)で白熱灯。デッキ式でアーチバー式台車を履き、車輪径は509mmだった。
Bハ7
旧藤相鉄道からの引継車で、旧車番はホハフ3。大正2年、日本車輌(日車)製の木造車。これも普通車に当たる3等車だったらしい。妻面3枚窓で両端にデッキが付き、側面は窓12(6+6)枚と、車体は中遠鉄道よりやや大型だった。
最大寸法9,398×1,848×2,985mm、自重4.1t、定員48名(座席36名)で白熱灯。アーチバー式台車を履き、車輪径は508mmだった。
Cハ8・9
旧国鉄に買収された佐世保鉄道の車両で、国鉄時代の旧車番はケコハ485・486だった。大正11年、岡部鉄工所製の木造車。後年の改造により、ハ8とハ9では妻面の外観が異なった。ハ8は平凡な妻面3枚窓になり、ハ9は妻面に独特の観音開きの貫通扉が残され、ガラス窓の形状とともに特長的だった。車体は両端にデッキが付き、側面形状は窓10(5+5)枚で、ハ8・9とも同一だった。
最大寸法8,979×2,133×2,023mm、自重4.4t、定員46名(座席30名)で白熱灯。アーチバー式台車を履き、車輪径は508mmだった。
Dハ10・11
旧中遠鉄道からの引継車で、旧車番はロボ5・6。大正2年、日車製の小型木造客車。車号から、中遠鉄道では特別車に当たる2等車として使用されたらしく、独立したモニタールーフが特長的。妻面は3枚窓で、両端デッキ付きの車体。側面は10(5+5)枚の1段下降窓だったが、後に部分的(ランダム)に2段窓に改造された。原型はいかにも軽便鉄道的な、好ましい二重屋根(屋根を重ねたような形状)の客車だった。
最大寸法9,398×1,948×3,100mm、自重4.3t、定員50名(座席32名)で白熱灯。アーチバー式台車を履き、車輪径は508mmだった。
Eハ12・13
ハ10・11と同じ大正2年、日車製の木造車で、旧中遠鉄道からの引継車と思われるが詳細は不明。妻面3枚窓の両端デッキ付きで、側面は12枚窓だった。その後ハ12は近代化改造され、両端デッキ式のままながら妻面は2枚窓になり、側面も幅の広い8枚の1段上昇式窓になった。
最大寸法9,398×1,848×2,985mm、自重4.1t、定員50名(座席36名)で白熱灯。デッキ式でアーチバー式台車を履き、車輪径は508mm。
Fハ15・16
旧藤相鉄道からの引継車で、旧車番はホハフ9・10。大正4年、日車製の木造車。同形だがハ15は屋根の形状がシングルルーフで、ハ16はとても浅いダブルルーフという違いがあった。ともに妻面3枚窓で両端にデッキが付き、側面は10枚窓だった。屋根形状の違いは、後の改造によると思われる。
最大寸法9,602×1,930×3,048mm、自重5.7t、定員56名(座席36名)で白熱灯。デッキ式でアーチバー式台車を履き、車輪径は508mmだった。
Gハ18〜20(3両)
旧藤相鉄道からの引継車で、旧車番はホハフ13〜15。大正14年、日車製の木造車。当初は3両とも妻面3枚窓で、両端にデッキが付き、側面は10枚窓だった。後の改造でハ18と20は車体を一部鋼製化され、妻面が2枚窓になり側面も窓が8枚と広くなったため、未改造のハ19とは別形式車のように見えた。
最大寸法9,627×2,070×3,118mm、自重6.4t、定員56名(座席34名)で白熱灯。デッキ式でアーチバー式台車を履き、車輪径は508mmだった。
Hハ21
当初日本車輌が石川鉄道向けに、大正4年に2両製造した木造客車。昭和14年に栃尾鉄道に譲渡され、ハニ13・14となった。昭和20年にハニ13が静岡鉄道駿遠線に再譲渡され、ハ21となった。外観は他車と同じく妻面3枚窓で、両端デッキ付きで側面は8枚窓だった。その後改造により側面のみ簡易鋼体化され、10枚窓になった。
全長9,601mm、自重5.9t、定員56名(座席34名)で、車輪径は他車と同じ508mmだった。
Iハ22
元草軽鉄道(電化後草軽電鉄)のホハ20で、昭和18年に駿遠線に入線したが、さらに前身は丸岡鉄道(後に福井鉄道丸岡線)の新製車だった。大正4年日車製の木造車で、草軽時代に日本鉄道自動車工業(日鉄自)でドア付きに改造したというが、駿遠線ではデッキ付きの姿で活躍していた。妻面3枚窓に横桟入りで、側面は10枚窓だった。
最大寸法9,601×1,935×2,726mm、自重5.3t、定員50名(座席32名)で白熱灯。デッキ式でアーチバー式台車を履き、車輪径は508mm。ただし車輪はどの時代かに交換され、静岡鉄道駿遠線で508mmになったと思われる。
Iハ23・24・25
元三重交通からの転入車で、旧番号はサ364、サ365とサ361だった。大正2年、名古屋電車製作所製の木造車。外観は他車と同じく妻面3枚窓で、両端デッキ付きで側面10枚窓だった。ハ23は後に半鋼車体化され同時に貫通化されたという。
最大寸法9,449×1,905×2,872mm、自重4.0t、定員54名(座席36名)で白熱灯。デッキ式でアーチバー式台車を履き、車輪径は508mmだった。
Jハ27・28
同じく元三重交通の車両で、旧番号はサ333とサ334だった。明治45年の古い日車製木造車で、モニタールーフ付き(二重屋根)の車体だった。ハ27は転入後改造され、他車と同じシングルルーフに妻面3枚窓となり、元の車体の面影はなくなった。
最大寸法9,256×1,956×2,819mm、自重3.8t、定員40名(座席24名)と小型だった。車内は白熱灯でデッキ式、アーチバー式台車を履いていたが、車輪径は457mmしかなかった。その後他車の台車を転用してか、508mmになった。
Kハ29
キハD4のエンジンを撤去し、客車化した車両。キハD4は元藤相鉄道キハ5で、片端に鮮魚台があったが、客車化の際撤去された。昭和11年、日車製の半鋼製車体で、改造工事(エンジン撤去等)は昭和40年に自社工場で実施された。妻面2枚窓で、側面は1D5D1のままで、車輪径とともに内燃客車時代と変わらなかった。
最大寸法8,420×2,134×3,184mmと外寸は小型だが、自重7.9tあり、定員56名(座席24名)だった。台車は内燃客車時代の菱枠型で、車輪径は710mmのまま使用。この車両から駿遠線客車に客室扉が付き、車内も蛍光灯になった。
Lハ101・102
木造客車が老朽化したため、自社大手・袋井工場で新製した12両のうちのトップ2両。昭和31年製で、半鋼製車体に最初から客用扉をもち、ようやく近代化されたといえる。ただし外観はいかめしく、まだスマートとはいえないものだった。妻面3枚窓で、側面は1D7D1となり、妻面・側面とも2段上昇式窓となった。
最大寸法10,600×2,130×3,140mmと大型化し、自重7.5t、定員も75名(座席37名)と増え、車内は蛍光灯だった。台車はアーチバー式を履き、車輪径は510mmで、電灯用発電機(12V)を架装していた。
Mハ103〜106(4両)
自社工場で続々と製造された客車。ハ103とハ104は昭和31年製で、ハ105とハ106は昭和32年製。半鋼製車体で客用扉付き、車内は蛍光灯だった。これも先のハ101・102と全く同形で、外観はまだスマートとはいえないものだった。
最大寸法10,600×2,130×3,135mmで、自重7.5t、定員75名(座席37名)。台車は自家製の軸バネ式となり、車輪径は580mmとなった。先のハ101・102同様、電灯用発電機(12V)も架装されていた。
Nハ107〜111(5両)
自社工場製客車シリーズ。ハ107からは張上げ屋根になり、窓も上段がHゴムで固定され、だいぶ近代化されスマートになった。半鋼製車体で客用扉をもち、妻面3枚窓で、側面は1D7D1。妻面は丸味をおび、ノーシル・ノーヘッダーの張上げ屋根で、車内は蛍光灯だった。昭和33年製で、これらの車両を製造した実績から、袋井・大手工場は内燃客車の自社製造に着手したという。
最大寸法10,800×2,130×3,135mmで、自重7.5t、定員75名(座席37名)。台車は自家製の軸バネ式で、車輪径は570mm、電灯用発電機(12V)も架装。ハ110と111は駿遠線最後の区間(新藤枝〜大井川間)でも活躍した。
Oハ112
自社工場製の最後の車両。昭和37年製で、内燃客車製造が一段落した段階で新製された。これもノーシル・ノーヘッダーの張上げ屋根で、窓も上段Hゴム固定式で、車内は蛍光灯。ただし妻面は切妻式に近くなり、近鉄の特殊狭軌線近代車両に似て、かなりスマートな外観になった。
最大寸法10,800×2,130×3,135mmで、自重7.5t、定員75名(座席36名)。台車も自家製の軸バネ式で、車輪径は570mm、電灯用発電機(12V)も架装。前述のハ110・111とともに、全線廃止まで活躍した。
Pハ113〜115(3両)
新造車名義ではあるが、元草軽電鉄のホハ30を昭和38年12月に3両購入し、自社工場で改造したもの。その際外板をほとんど撤去し、叩き直して新造車同様に張直した。特長的だったセミクロスシートはロングシート化され、台車も自家製のものに履替えられた。元車は昭和12年、日車製の半鋼車。妻面貫通式で、側面は1D8D1、半鋼製車体で客用扉付き。改造後妻面の窓はHゴム支持となり、側面の戸袋窓の違いもあり、3両とも微妙に異なる外観になった。これら3両も、自社製のハ110〜112とともに、駿遠線全線廃止の最後の日まで活躍した。
最大寸法10,300×2,130×3,050mmで、自重7.5t、定員75名(座席34名)。台車は前述の自家製軸バネ式に振替え、車輪径は610mmになり、電灯用発電機(12V)も架装していた。
Qハニ1・2
旧藤相鉄道からの引継車。大正13年、名古屋電車製作所製の木造荷物合造車で、荷重2トンの荷物室側の妻板には窓がなくノッペラボーだった。客車側の妻面は3枚窓(横桟入り)で、片端式デッキに、側面は窓6枚。客室部分はまったく同じだったが、ハニ1は荷物室が両開扉で、ハニ2は片開扉という外観上の違いがあった。駿遠線の名物ともいえる車両で、いかにも軽便鉄道らしい外観から、各方面に多大な人気があった。機関車に牽かれる姿はもとより、近代的な内燃客車(キハD14系)にたった1両牽かれた姿も絵になった。一時模型化され市販されていたが、ぜひ再製造により再販を望みたい。
最大寸法9,195×2,128×3,111mm、自重5.0t、定員32名(座席20名)で車内は白熱灯。片デッキ式でアーチバー式台車を履き、車輪径は508mmだった。塗り分けは、客室部分は他車と同じツートンだったが、貨物室部分は貨車と同じ黒色だった。かつて客車は1色塗り時代があり、その当時も同じように、客室部分と貨物室部分を塗り分けていたと思われる。