資料館目次へ    前頁に戻る    次頁へ

■■ 駿遠線全車両ガイド その五 ■■

【 貨 車:FC/藤相鉄道・中遠鉄道・静岡鉄道 】


 軽便鉄道用貨車は一般に地味な存在ではあるが、今日のように各種運送業が発達していなかった時代、貨車輸送は重要な役目を果たしていた。藤相鉄道・中遠鉄道とも、静岡鉄道に合併以前から貨物量は多かった。このため一般的な2軸車ではなく、開業当初から全てボギー車が用意された。軽便鉄道のボギー貨車は比較的珍しいが、車体は小型の木造で、大きさは2軸車と大差なかった。記録によると藤相鉄道では29両(有蓋車22両・無蓋車7両)を有し、中遠鉄道でも9両(有蓋車6両・無蓋車3両)を有していたが、静岡鉄道駿遠線になった戦後の最盛期は55両(有蓋車29両・無蓋車26両)に達していた。その実態は不明なことが多く、日本車輌の資料を元に製造記録ベースで記述したが、後ろに添付した末期の車両性能表(静岡鉄道車両課)とは不一致な点が多い。この点はご容赦いただくとともに、さらなる研究材料としたい。駿遠線の貨車を良く知る方があれば、ぜひともご教示賜りたい。

 また駿遠線にもただ1両2軸無蓋車(トフ1)が在籍したが、これは一般的な営業貨車ではなく、社用品専用輸送貨車だった。その積荷は軽油のドラム缶で、それ以外の荷物を積む事は無く、相良〜新三俣間だけで使用された。それは相良にあった軽油貯蔵施設(危険物取扱場所)から、車両駐泊のあった新三俣に、内燃客車用燃料を輸送する専用貨車だったのである。このため新藤枝・新袋井方面には一切行かず、一般の人の目に触れることもなかった。まさに幻の貨車であるが、車体長などは他のボギー貨車と大差なかった。

 駿遠線沿線から出荷された貨物で、特長的なものは次のようになる。旧藤相線は穀倉地帯の志太平野を抜け、砂丘の発達した海岸を走っていた。まず新藤枝に近い大洲・上新田は志太梨の中心で、夏から秋は梨が有蓋車で盛んに出荷された。遠州神戸(神戸村)には藤相鉄道二代目社長が経営していた醤油醸造工場と輸出用製茶工場があり、その製品を毎日有蓋・無蓋貨車で出荷していた。上吉田は住吉漁港と養鰻が盛んな地区を控え、鮮魚輸送と夏は鰻輸送で活気があった。ここから出荷される鰻は生きたまま輸送され、吉田の活鰻として定評があった。出荷とは逆に入荷貨物も多く、鰻の餌となる鰯や、鰹の頭などがあった。また近くに漁網会社があり、原料となる綿糸が関西方面から輸送され、加工された製品が出荷された。榛原町(遠州川崎)には専売公社の工場ができ、付近の農家で栽培されたタバコの葉が貨車で輸送された。また農産物ではお茶や椎茸、サツマイモの切り干し等、海産物では魚介類・エビ・カニ・鰹等も四斗樽に詰めて輸送された。反対に外米・肥料(豆かす)・油類が着荷となった。このため無蓋車の保有率が比較的高かった。また、相良には太平洋岸唯一の国産油田が存在した。産油量は最盛期で年間720kL程度だったが、青緑色半透明の良質油が採油できた。もし戦時中軍部が石油輸送に着目していれば、新藤枝〜相良間は1,067mmに改軌され、国鉄貨車が入線していたかもしれない。

 一方旧中遠鉄道では、新岡崎からは遠州瓦が出荷され、新横須賀からは漬物(梅干し・ラッキョウ・しょうが等)・サツマイモの澱粉・切り干しイモなどが出荷された。また夏期には西瓜が毎日たくさん出荷された。南大坂からも切り干しイモが出荷される一方、陸軍の遠江射撃場への弾薬関係荷物が到着していた。これは南大坂でさらに軍用軌道(トロッコ)に積換えられ、大東町浜野付近にあった軍施設まで輸送された。当時南大坂から地頭方あたりまでの一帯には、軌間600mmの軍用軌道が張巡らされていたという。
貨物輸送は、軽便鉄道が唯一の交通機関である時代は盛況をきわめた。しかし戦後トラック輸送が発達してくると、国鉄貨車から軽便貨車への積み換えの手間と輸送力の低さから、しだいに貨物取扱量が低下してきた。このため静岡鉄道では自己防衛手段として、昭和26年2月に駿遠運送を設立した。この時点で混合列車輸送を廃止し、貨物輸送は一気に下火となった。その後も昭和34年5月まで小口輸送が続けられたが、戸口輸送のトラックには対抗できず、同年6月1日には貨物輸送を全廃している。

 ちなみに昭和25年10月1日改正ダイヤでは、新藤枝〜新袋井間直通列車9往復(18本)のうち、6往復(12本)は混合列車。旅客専用列車(内燃客車)は3往復(6本)しかなかった。また大手線新藤枝〜大手間にも、43往復中4往復の混合列車が運転されていた。これが混合列車廃止後、一気にゼロとなった。貨物輸送廃止後、貨車は用途を失った。一部は細々と保線用などに使用されていたが、大半は解体され鉄屑として処分され、また一部は足回りをはずして物置に使用された。この点からも軽便鉄道用貨車の末期がいかなるものだったか想像でき、多くの車両たちの悲運な末路を偲びたい。
面白いのは大井川が人車連絡だった時代、貨車は貨物積換えの手間を省くため、客車とは別に直通していたことである。人は足で乗り換えられるが、重い荷物はそうはいかないからだ。記録によると、富士見橋までの勾配区間は蒸気機関車に後ろから押され、橋上の平坦区間は車夫に押されて大井川を渡った。その後再び蒸気機関車に連結され、混合または貨物列車として目的地に向かっていた。このため旧藤相鉄道の貨車と旧中遠鉄道の貨車では、同じ日本車輌製造の同形車でも、ホイールベースが若干異なっていた。


@ワフ1形(←ケホワフ1〜5)5両

 車端片側がオープンデッキになった珍しい構造の軽便鉄道用小型木造貨車で、藤相鉄道用として大正2年に日本車輌(日車)で、ケホワフ1形として5両製造された。同形車が中遠鉄道用として、大正2〜3年に3両製造されている。外観は片側にデッキが付き、反対側にはデッキは無く、前後非対称になっていた。ケホワフという形式は、軽便鉄道用ボギー式有蓋貨車で手動ブレーキ付の意味。中遠鉄道での形式は不明。

Aワフ6形(←ケホワフ6〜26)21両

 藤相鉄道用に増備されたボギー式有蓋貨車で、大正4〜5年に16両、大正12年に5両製造された。最大寸法(長さ×幅×高さ)は上記ケホワフ1形とほぼ同一で、最大寸法5,885×1,924×2,667mm、自重3.0〜3.3t。ただしケホワフ6形は、両端ともデッキなしの完全な有蓋車構造になった。この車両は貨物輸送最後まで活躍し、車体はさらに倉庫等に転用された。

B?フ1形(←?ケホフ1〜2)2両

 藤相鉄道用に大正3年日車で製造された、木造ボギー式郵便手荷物緩急車。構造はケホワフ1形に車掌室と郵便仕分台を設置したもので、寸法的にも外観的にも大きな差異はなく、共通で使用されたものと思われる。写真等の記録も見あたらず、活躍期間が短かったか、あるいは改造され別形式になったものと思われる。

Cトフ1形(←ケホトフ1〜3)3両

 軽便用木造ボギー式無蓋貨車で、大正2年藤相鉄道用に3両、中遠鉄道用に3両の同形車が製造された。ケホトフという形式は、軽便鉄道用ボギー式無蓋貨車で手動ブレーキ付の意味だが、後に単にトフ(ブレーキ付無蓋車)に改称された。最大寸法は下記ケホト4形とほぼ同一で、5,885×1,829×1,212mm、自重2.8〜3.0t。積載重量4.5〜5tだった。

Dト4形(←ケホト4〜8、9〜13)10両

 藤相鉄道で大正4〜5年に増備された、ケホト1と同形のボギー式無蓋貨車でブレーキは側面踏式だけだったので、フが付けられていない。さらに大正13年にも5両増備されたが、これらはホイールベースが異なっており、別形式にされた可能性もある。この車両は静岡鉄道合併後にト(無蓋車)に改称された。

Eチフ3形(チフ3〜4?)2両?

 ボギー式無蓋貨車で側板がない、いわゆるフラットカーで、手動式ブレーキ装置を装備していた。貨物輸送盛んな時期には重宝され、その後工事用や保線用にも使用された。

Fチ1形(チ1〜2?)2両?

 上記と同じフラットカーで、ブレーキ装置は側面踏式だけだったので、形式はチフとなっていない。これらは全部で何両あったのか、新製または他社から転入したのか、あるいはトフから改造されたのかは不明。


(参考)静岡鉄道車両課による車両性能一覧表より
番 号 荷重 自重(t) 長さ(mm) 制動機種類 車輪直径(mm) 製造年月
ワフ1〜6 4.0t 3.0t 6,045mm 手動式 508mm 大3-7
〃 7〜10 4.5t 3.1t 大2-3
ワ14〜19 5.0t 5,885mm 側板式 大4-5
〃21 3.3t 大12-3
〃22 3.0t 大7-7
〃25〜27 3.3t 大12-3
トフ1 2.0t 2.0t 5,194mm 手動式 昭6-5
〃 3・4 4.0t 3.0t 6,046mm 大2-10
〃 5 4.5t 2.8t 5,885mm 大4-3
〃 7・8 5.0t 3.0t 6,127mm 大13-11
〃 9 4.5t 2.8t 5,885mm 大4-3
ト10 5.0t 側板式 大7-7
〃12 大4-4
〃14・15 3.1t 大14-2
チ1・2 5.0t 2.8t 大10-6
チフ3・4 6.0t 3.5t 手動式 大13-11

資料館目次へ    前頁に戻る    次頁へ