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■■ 軽便鉄道の優等列車 ■■


2004年3月改訂


 1.軽便鉄道の優等列車運転

  わが国の軽便鉄道は一般に列車本数が少なく、途中駅を通過する優等列車が運転された路線は多くなかった。軽便鉄道における優等列車の運転は、@静岡鉄道駿遠線の他に、A井笠鉄道(岡山県)と、B越後交通栃尾線(旧栃尾鉄道、新潟県)にも見られた。下津井電鉄(岡山県)では女性車掌の乗る観光用特別列車を運転していたが、途中駅を通過する優等列車であったかどうかは定かでない。また同電鉄では、日中の列車が一部の駅を通過し、さながら快速運転のようであった。しかしこれは利用客が少ない停留所を通過するだけで、優等列車としての運転ではなかった。このため記録としては除外する。

 2.静岡鉄道駿遠線の快速列車

  静岡鉄道駿遠線の快速列車は、軽便鉄道としては珍しい本格的な定期運転列車で、通年運転の定期快速列車の他に、夏季には停車駅の全く異なる臨時快速(海水浴快速)列車が運転されていた。静岡鉄道でもこれら快速列車に期待していたらしく、小型ながらも立派なヘッドマークを用意し、専用のサボ(行先の上段に青字で快速と表示)も使用していた。また停車中の列車の後部脇にも「快速」という案内看板を掲示しており、このような例も他の軽便鉄道では見ることができない。(写真1:客車の左脇にスタンド式の看板)

  これら快速列車の通過駅では、常に対向する普通列車が先に入線し、快速列車の通過を待っていた。これは腕木式場内信号機の構造上、一方の列車が場内に入線している間は、対向列車は場外で一時停車して待機しなければならなかったからだ。このため快速列車は、常に堂々と駅を通過することができた。またタブレットの受け渡しは当然走る列車から行われるため、駿遠線の列車交換可能な各駅には、「タブレット受器」と「タブレットキャッチャー」が用意されていた。タブレット受器はラセン状の装置で、前閉塞区間のタブレットを走行中に投入する受領用装置である。またタブレットキャッチャーとは、新しい閉塞区間のタブレットを乗務員に安全に渡すための装置で、乗務員がタブレットを受取ると腕木が倒れる仕組みになっていた。その機能構造は国鉄型と全く変わりないが、駿遠線では軽便鉄道用らしく小型の、まるで玩具のような装置が用意されていた。そして通過列車の乗務員は、列車を最徐行させながら運転席を立ち、窓から身を乗り出して慎重にタブレットを受け渡していた。

 
写真−1:1960年3月/新藤枝駅
客車の左脇にスタンド式の看板
「丸に快速」の下には「快速停車駅 遠州神戸・上吉田・根松・静波・榛原町・相良・新相良」とある
(撮影:む〜さん)

 (1)定期快速

  静岡鉄道駿遠線の快速列車は、記録によると昭和31(1956)年11月19日より、新藤枝〜地頭方間27.9kmで1日6本の運転を開始した。運転車両はレールカー(内燃客車)が使用されたが、特定車両による限定運用ではなく、古いキハC型も新しいキハD型も使用されていた。次いで昭和33(1958)年5月20日より、社袋井〜新三俣間17.4kmでも快速運転を開始した。こちらでも使用車両は特定しておらず、内燃客車が交代で運用されていた。そして昭和33(1958)年10月1日から、新藤枝〜社袋井間60.7kmで、全線直通の快速列車が運転された。上下各1本の直通快速列車の他、下り快速は相良〜社袋井間に1本(新藤枝〜相良間普通列車)、新藤枝〜地頭方間に3本が運転された。上り快速は地頭方〜新藤枝間も2本(うち1本は社新袋井〜地頭方間普通列車)が運転され、他に社袋井〜新三俣間で1本運転されていた。下り直通快速は所要2時間17分、上りの直通快速は所要2時間12分(表定速度27.6km/h)で、後者は駿遠線全線で史上最速の列車だった。当時の基準運転時分表では、全線の快速列車運転時分は停車時間を含まず、上下とも126分30秒で設定されていた。これを上り快速は実際に132分00秒で走破したため、停車時分は各駅とも10秒から30秒、最長でも60秒だった。いわばこの列車は常に走りっ放しの状態で、運転を担当した乗務員の苦労のほどがしのばれる。しかしこの全線直通快速は、列車本数の少なかった地頭方〜新三俣間の各通過駅の利用客からは不評で、次の時刻改正で同区間は普通列車化され、同時に芝駅にも停車するようになった。この幻の全線直通快速は、昭和34(1959)年9月22日の時刻改正までのわずか1年弱の運転だった。


写真−2:1959年3月/新岡崎駅
袋井行き快速列車(撮影:む〜さん)

  次いで実施された昭和35(1960)年6月1日の時刻改正は、わが国の軽便鉄道の運転史上実に画期的なダイヤだった。それは上り快速列車3本で、普通列車の追越し運転が見られたからだ。昭和35年のダイヤによると、快速の運転本数は下り新藤枝〜地頭方間で4本(うち3本は相良から各駅停車)、新三俣〜社袋井間で2本が運転された。一方上り快速は社袋井〜新三俣間2本、地頭方〜新藤枝間1本、相良〜新藤枝間2本が運転された。所用時分は最速の列車で、下り新藤枝〜地頭方間で66分00秒(相良で3分30秒停車)、上り地頭方〜新藤枝間で64分00秒(表定速度26.2km/h)だった。新藤枝〜地頭方間では普通列車より約10〜15分程度早く、上り列車1本で普通列車の追越しがあった。また社袋井〜新三俣間では、最速の列車で所用時分は下り新三俣〜社袋井間が39分30秒、上り社袋井〜新三俣間では38分30秒(表定速度27.1km/h)だった。社袋井〜新三俣間でも普通列車より約8〜12分程度早く、上り列車2本で普通列車の追越し運転が見られた。これらの表定速度は優等列車としては低いようだが、軌間762mmの軽便鉄道として、また全線単線で非電化の鉄道としてはかなり高レベルのものだった。ちなみにダイヤ上での駅間最高速度は40〜45km/hで、最高でも50km/hだった。しかし実際には車両の性能が良かったので、保線が行き届いていた頃の直線区間では、最高速度を62〜63km/hくらい出しても平気だったそうだ。

  この画期的なダイヤも、次の昭和37(1962)年10月1日の時刻改正で、普通列車の追越し運転も無い平凡なものとなった。快速の運転本数は下り3本、上り2本となり、相良〜地頭方間と新三俣〜新横須賀間も各駅停車となった。またこの時刻改正により、社袋井〜新三俣間の上り快速運転も無くなった。しかし残された快速列車の先頭には、相変わらず「快速」というヘッドマークが、誇らしげに取付けられていた。その後昭和39(1964)年9月26日に、堀野新田〜新三俣間と、新藤枝〜大手間の路線が廃止された。このため中遠線区間の上りと下りの方向が逆になり、元は下りだった新三俣〜社袋井間が上りとなり、上りだった社袋井〜新三俣間が下りとなった。いわば旧中遠鉄道時代の、上りと下りに戻ったのだ。これにより快速列車もさらに削減され、昭和41(1966)年3月16日の改正ダイヤでは、新藤枝〜堀野新田間では朝上り1本、夕下り1本の運転になった。これらの快速列車には、朝は新鋭機だったDD501形機関車が使用され、夕方は内燃客車列車が使用された。このDD501形機関車にも「快速」のヘッドマークが取付けられた。また新三俣〜社袋井間では上り朝1本のみの運転となり、新三俣〜新横須賀間は各駅に停車した。この昭和41年には再度時刻改正が行われ、同年10月1日の改正ダイヤで、快速は上りと逆の下り1本になり、社袋井〜新横須賀間の始発列車が快速運転となった。元々乗降客の少ない停留所を通過したもので、結局この列車が昭和42年8月27日の同区間廃止まで運転された。

  一方の新藤枝〜堀野新田間では、定期快速は朝の上り1本と夕方の下り1本だけになっていたが、ここに思いがけない優等列車が運転された。それが夏季臨時快速、いわゆる海水浴快速「さざなみ号」であった。まさに駿遠線最後の輝きともいえる華やかな快速列車ではあったが、朝夕の定期快速とともに、昭和42(1967)年10月16日の時刻改正で快速運転は全て廃止された。以後の駿遠線は全列車とも普通列車だけになり、昭和43(1968)年8月21日の大井川〜堀野新田間廃止と、昭和45(1970)年7月31日の新藤枝〜大井川間全線廃止を迎えることになった。これらの快速列車の途中停車駅は、遠州神戸・上吉田・根松・静波・榛原町・相良・・・以遠各駅停車あり・・・新相良・地頭方・浜岡町・新三俣・南大坂・・・ここまで各駅停車あり・・・新横須賀・新岡崎・芝(当初は通過)だった。各列車ごとの停車駅の詳細については、別表「軽便鉄道の優等列車停車駅」をご参照いただきたい。

 別表「軽便鉄道の優等列車停車駅」

 (2) 海水浴快速

  まさに駿遠線最後の輝きとも言える臨時列車で、夏季の海水浴シーズンにのみ運転され、定期快速列車とは停車駅が異なっていた。内燃客車2両が数両の客車を挟む長大編成が使用され、各車両とも満員の海水浴客を運んでいた。それら内燃客車は機械式だったので、運転台ごとに運転手さんが乗り、後部車両では警笛を合図に力行や制動操作を行っていた。この海水浴快速は新藤枝〜大井川間の各駅に停車したが、所用時間は普通列車より約4〜6分程度早かった。またこれら列車の先頭にも、「さざなみ」というヘッドマークが取付けられていた。

  運転本数や停車駅は年にもよるが、記録によると昭和41(1966)年夏のさざなみ号は、下り朝2本(新藤枝〜相良間1本、新藤枝〜榛原町間1本)、上り夕方1本(榛原町〜新藤枝間)が運転された。途中停車駅は大井川までの各駅で、以遠は榛原町までノンストップだった。ちなみに下り相良行き「さざなみ号」は、榛原町〜相良間は普通209列車と併結し、さらに長大な普通列車として運転した。また上り「さざなみ号」は、上吉田で列車交換のため停車する以外はノンストップで、大井川から再び各駅に停車した。
一方昭和42(1967)年夏のさざなみ号は、下り朝2本(新藤枝〜相良間1本、新藤枝〜榛原町間1本)、上り夕方2本(相良〜新藤枝間1本、榛原町〜新藤枝間1本)が運転された。途中停車駅は大井川までの各駅で、以遠は榛原町までノンストップだった。ちなみに下り相良行き「さざなみ号」は、榛原町〜相良間は普通207列車に併結運転した。また上り「さざなみ号」は、相良発は榛原町のみ停車し、2本とも根松で列車交換のために停車する以外はノンストップ。以遠は再び大井川から各駅に停車していた。

 ここで特筆すべきは、ダイヤグラムの取扱いである。昭和41年夏のさざなみ号はいわゆる「盛りスジ」で、後から追加挿入で運転された。これに対し昭和42年夏のさざなみ号はいわゆる「予定臨」で、最初から臨時列車のスジが設定されていた。そのため、この臨時列車さざなみ号の運転日には、他の定期列車の「時刻変更」があった。まさに軽便鉄道とは思えない、当時の国鉄並みの素晴らしいダイヤグラムであった。

 2.井笠鉄道の急行列車

  井笠鉄道は762mmゲージの非電化軽便鉄道で、明治44(1911)年7月1日に井原笠岡軽便鉄道株式会社として設立、大正2(1913)年11月17日に笠岡〜井原間19.4kmの井笠本線が開業。大正4(1915)年11月26日に社名を井笠鉄道に改称した。大正10(1921)年10月25日に北川〜矢掛間5.8kmの矢掛支線開業。大正14(1925)年2月7日に井原〜高屋間4.0kmの高屋支線が開業し、両備鉄道高屋線(762mmゲージ)と相互乗り入れが始まった。その後昭和15(1940)年1月1日に神高鉄道(元の両備鉄道高屋線)7.8kmを買収し、井笠鉄道高屋支線と合わせて神辺支線11.8kmとなった。

  急行列車は井原〜笠岡間19.4kmの井笠本線で、昭和27(1952)年6月1日より運転された。その所用時分および運転本数等は不明であるが、この急行列車の写真は、井笠鉄道50年史にも掲載されている。途中停車駅は新山・北川のみで通過駅が多く、これらの通過駅を利用していた乗客から不評が出たため、運転開始からわずか約半年後には廃止されたという。井笠鉄道はその後も結構利用客があり、鉄道ファンからの人気も高かった。しかし国鉄井原線の建設が決定すると、路線が重複することが大きな問題となった。そこで井笠鉄道は国鉄井原線に用地を提供する形で、昭和42(1967)年4月1日に神辺支線・矢掛支線を廃止し、昭和46(1971)年4月1日に井笠本線も全線を廃止した。ところが井原線の建設は、昭和41(1966)年7月に国鉄新線として着工したものの、国鉄再建のあおりをまともに受けた。すなわち路盤工事の約5割が完成したところで、昭和55(1980)年度から建設予算が凍結され、工事中止の止む無きに至った。一時は全線開通も危ぶまれたが、平成11(1999)年1月11日に、ようやく第三セクター「井原鉄道」として開業を果たした。このため同鉄道は、井笠鉄道の廃線跡を利用したり、あるいは神辺支線・矢掛支線の廃線跡と並行して走っている。

 3.越後交通栃尾線の優等列車

  越後交通栃尾線は栃尾鉄道として開業し、電化されて栃尾電鉄となり、越後交通に合併して栃尾線となった。栃尾鉄道は大正4(1915)年2月14日、浦瀬〜栃尾間17.7kmで営業開始。同年6月に下長岡まで4.6km延長し、さらに翌大正5(1916)年9月9日には長岡駅が開業し、長岡〜栃尾間23.7kmが結ばれた。そして大正13(1924)年5月1日に、長岡〜悠久山(ゆうきゅうざん)間2.8kmが開通し、悠久山〜栃尾間26.5kmの全線が開通した。同鉄道は昭和23(1948)年4月1日に全線電化し、昭和31(1956)年11月20日には栃尾電鉄と改称した。その後昭和35(1960)年10月1日に長岡鉄道と合併し、越後交通栃尾線となった。

  越後交通栃尾線は栃尾電鉄時代から積極的に近代化を行ない、悠久山〜栃尾間26.5km、全線単線762mmゲージの軽便鉄道ながら、一部区間はCTC化され最盛期には約40分おきに電車が運転されていた。また花見時期は、下長岡〜悠久山間で早朝から深夜まで、約10分おきに臨時電車が運転されていた(4月15日から30日まで、朝8時から夜11時まで運転)。越後交通栃尾線の優等列車運転開始は、非電化だった栃尾鉄道時代に遡る。すなわち昭和2(1927)年11月20日から、2両のガソリンカーによって急行運転を開始した。蒸気機関車の列車が所要103分程度かかっていた長岡〜栃尾間23.7kmを、急行は75分で走破した。運転本数は、午後1往復だったという。途中停車駅は、神田口(袋町)・下長岡・浦瀬・上見附だった。ちなみに上見附はスイッチバック駅で、同駅で進行方向が逆になった。その後戦争とともに急行運転は中止され、電化後は普通電車でも急行列車並みの所要時分で走れたので、急行運転は廃止された。

  その後サービス向上のため、新たに準急電車と快速電車が運転された。昭和28(1953)年7月の栃尾鉄道時刻表によれば、準急は上り5本(準50〜58列車)が早朝(栃尾駅5:00発)から。下り4本(準51〜57列車)が夜間(悠久山駅20:46発)まで運転されていた。快速は上り1本(快10列車、栃尾駅7:58発)のみの運転だった。ともに栃尾〜悠久山間26.5km、所要時間約70分で、普通列車より約10分ほど早かった。準急の途中停車駅は、楡原・上北谷・上見附・椿沢・加津保・浦瀬・下長岡・袋町・長岡・四郎丸(大学前)だった。これに対し快速の停車駅は、栃尾…各駅停車…上見附・椿沢・加津保・浦瀬・下長岡・袋町…各駅停車…悠久山だった。これらの停車駅の詳細は、別表をご参照いただきたい。

 しだいに優等列車本数は削減されたが、昭和43(1968)年10月の越後交通栃尾線時刻表によれば、準急はまだ下り4本、上り3本が運転されていた。その運転区間は短縮され、下り悠久山発は3本中2本が栃尾行き、1本が上見附止まりとなり、長岡発栃尾行き1本も運転されていた。上り3本はどれも悠久山行きであったが、始発駅は栃尾、上見附、下長岡となった。途中小曽根が停車駅となり、袋町から悠久山まで各駅停車となった。このため下長岡発栃尾行きの準急1本は、途中なんと東神田(中越高校前)1駅を通過するのみだった。

  その後越後交通栃尾線の乗客は減少し、準急も栃尾〜上見附間(袋町〜悠久山間)各駅停車の快速に変更された。さらに自社バスの進出も相まって、越後交通栃尾線は昭和48(1973)年4月15日に上見附〜栃尾間10.4km、悠久山〜長岡間2.8kmが廃止された。そして昭和50(1975)年3月31日には、残されていた長岡〜上見附間13.2kmも全線廃止された。ちなみに越後交通では、バス化された現在の栃尾線でも、急行・快速・普通(長岡駅東口〜上見附線他)を運転している。


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