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自分史手記
■■ 駿遠線車掌奮闘記 ■■
元静岡鉄道駿遠線の乗務員であった、Kさんの貴重な手記です ![]()
昭和20年代から昭和42年までの、駿遠線の姿が
生き生きと描かれております
(自分史手記)
駿遠線車掌奮闘記
《 元静岡鉄道乗務員 K 》
1.車掌人生への道
私が静岡鉄道に入社したのは昭和23年、16才のときでした。この頃はまだ戦後の混乱期で食糧も乏しく、いろいろな物資の配給・統制が続いていました。また家庭も貧しかったため、私は上の学校をあきらめて働くことにしました。決して勉強がキラいだったわけではありません。私が働きに出たおかげで、妹は上の学校に進むことができました。この時、警察官になろうか鉄道員になろうかずいぶん迷いました。しかし「鉄」道職員の方がよほどカタそうな道に思えたので、そちらに進みました。それというのも当時は軽便鉄道の全盛時代で、列車は沿線への買出し客で、連日鈴なりになって走っていました。もしこの時警察官になっていたら、今頃は全く違う人生になっていたと思います。それから昭和42年までのちょうど20年間、駿遠線の新三俣〜新袋井間が廃止されるまで、軽便鉄道の車掌として乗務してきました。
2.厳しい新人時代
新入社員としてまずやらされたのが薪割りです。朝から晩まで一日中薪割りをさせられ、もうヘトヘトでした。それというのは当時は燃料統制が続いており、鉄道もバスも代燃車が全盛の時代でした。代燃車というのは、薪や木炭から発生するガスを利用して車両を走らせるもので、大きな燃焼装置という窯を備えていました。ここにくべる薪には古い枕木を使いました。枕木は栗材なので良く燃え、火持ちの良いのが特長でした。蒸気機関車もまだ使われていましたが、こちらは専門の職員(機関助手)が釜焚きをしていました。
代燃機関は始動が大変です。始発列車など朝暗いうちから火を入れて、ガスを発生させなければなりません。手を真っ黒にして、汗をポタポタ流しながら格闘します。やっと始動ができると、運転手を迎えに行きます。運転手は白い手袋で、さっそうと列車に乗り込みます。こちらは真っ黒な手袋でキップを売らねばならず、恥ずかしい思いをしました。これがエンストでもしようものならもっと大変。代燃窯を必死でかき回さなければ、エンジンがかかりません。駅と駅の間に止まってしまった時など、お客さんに一端降りてもらって、モウモウと立ち込める煙に涙を流しながらエンジンを再始動します。運転手は手を貸しません。これが車掌の仕事でした。
この時代もっと辛かったのは、上の学校に行った同級生が、お客として乗り込んで来ることです。あちらは学校の制服、こちらは鉄道の制服。なかには客車のデッキで煙草を吸う奴がいて、注意しようにも注意できず、悔しくも悲しい思いをしたものです。
3.車掌という仕事
石の上にも3年といいますが、仕事にも慣れ同級生も卒業していなくなると、少しは楽しみも出てきました。当時は新三俣と地頭方間がつながっており、新袋井発新藤枝行き列車に通しで乗務することがありました。行き約3時間半勤務して、向こうで5時間ほど空き、また約3時間半勤務して戻って来る仕事でした。この5時間の間に床屋に行って散髪したり、制服を脱いで映画を見に行ったりできるようになりました。散髪は身だしなみで、勤務中に伸びた髪は勤務中に切れといった理屈です。また乗務中も、地頭方から新三俣まではほとんどお客がいません。停留所を通過しながら、運転手と二人だけで列車を転がして行きました。初夏の頃など窓から吹き込む風が心地よく、まさに極楽気分でした。
車掌の仕事は完全な変則勤務で、日曜も休日もありません。正月に家にいたことなど、車掌時代は数えるほどしかありません。この頃はお袋が雑煮を作って飯盒に詰めてくれ、仕事の合間にストーブで暖めて食べました。乗務員区が新三俣と新藤枝にありましたが、新三俣には車掌15人、運転手16人しかいません。列車は必ず運転手と車掌がいなければ動かせず、長い休みなど取れない状態でした。冠婚葬祭の席などもずいぶん失礼しました。もし不幸があっても、勤務明けまではどうすることもできなかったからです。
また車掌は車内に入れないこともしょっちゅうでした。軽便鉄道の客車は小さく、すぐ満員になります。朝夕のラッシュ時などとても車内に入れず、最後部のデッキにしがみつくことになります。これがあの大井川鉄橋では地獄でした。長い長い鉄橋を渡るうち、川に吸い込まれそうになって、ヒヤヒヤしたものです。また真冬の時期など、遠州のカラッ風が下から吹き上げます。普段でも徐行運転をしていますが、強風のときなどはさらに最徐行。時速5kmそこそこで渡ります。その間に身体は芯から冷え切り、ようやく渡りきった頃は震えが止まらなくなりました。客室内に暖房もなく、よく身体を壊さなかったものだと感心しています。
キップを売る仕事も大変でした。今のように電卓など無い時代です。この頃最低運賃は10円でしたが、大人15円・子供8円、大人25円・子供13円という区間がありました。車掌は必ず次の駅までにキップを売らなければなりません。大人3人子供4人とか言われると、とっさの計算に苦労しました。また現金を扱う仕事なので、乗務後には検査がありました。衣服はおろか、靴の中まで調べられました。
キップを売ったときのお釣も、乗務前には200円分渡されるだけでした。乗務開始早々に500円札や1000円札を出されると、お釣に困ります。そのようなお客は、たいてい国鉄連絡キップでした。そこでそのお札を先に預かり、キップを切り、新袋井駅に着いて両替をしてからお釣を渡しました。相手はお札を預かられているので、逃げも隠れもできません。これは仕事柄身についた智恵というものでした。
また車掌は、決して列車を遅らせてはなりません。駿遠線は両方の終点とも国鉄に連絡しており、もし接続に遅れたら、今のように東海道線が頻繁に走ってはいません。このためどんなことがあっても、接続に間に合わせなければならないのです。そのうえ終点が近づくと、ますますお客が増えて満員になります。キップを売りたくても、車内に入ることもできません。止む無く終点に着いてからキップを売ることになりますが、キチンと料金を払う客などなく、皆終点の1駅か2駅手前から乗ったことにしてしまいます。それでも料金を取りはぐれるわけにいかず、時間に追われてのキップ売りはもう大変でした。ときどき静鉄本社の人間が身分を隠して調査に来ましたが、この状況を見れば車掌の売上金額の少なさが理解してもらえたハズです。
ときに調査員はわざと不正乗車をし、車掌の態度や身なりなどをチェックします。そしてやれ爪が伸びていた、やれ無精髭があったなどと名指しで報告してきます。上司から「おい、ちょっと来い」と言われると、たいていロクなことはありませんでした。
4.不正乗車の懲りない面々
軽便鉄道の車掌といえば、発車のとき笛を吹いて、あとはキップを売っているだけだろうと思われます。しかし車掌は運転以外は何でもやらねばならず、見た目より相当キツい仕事でした。またその仕事は、不正乗車と人身事故との戦いの毎日とも言えました。
長年車掌をやっていると、不正乗車する乗客がなんとなくわかるようになります。いわゆるカンというやつです。たとえば一番最初や最後に乗り込んできたり、車内で絶対に車掌と目を合わせなかったり、なんとなく落着かなかったりする客です。
不正乗車で良く捕まえたのは、定期券の改竄です。うまいこと日付や月を書換えるのですが、見破れば罰金徴収をします。傑作だったのは上手の手が余ったのか、うまく年号を書換え、10年定期券を作ってしまった客がいました。日付や月は良くチェックしていますが、年号はすぐに見破れません。しかし定期券というのは、1・3・6ヵ月のものしか無いのです。罰金は全線往復料金の3倍を、不正乗車日数に掛けた額です。まともに10年分払わせたら、家一軒分です。その間に相手が卒業して、軽便鉄道に乗らなくなるかもしれません。相手は某高校の女子学生でした。ついに捕まえると、親と一緒に家まで謝りにきました。親は平謝りで、本人も泣いて謝りました。しかし不正は不正です。その後は二度と不正乗車をしなくなったと思います。きっと今ごろは良いお母さんになっているか、あるいは孫でもいるのかもしれません。
この手の不正乗車は頭脳型といえるかもしれませんが、やって捕まるのはほとんど女子学生でした。一方遁走型といえるのが、男子学生や男の客です。こちらはさんざん追いかけてから捕まえるので、車掌泣かせのやり口です。軽便鉄道は車輪が小さく、客車から地面に平気で飛び降りられます。カーブで速度を落したりすると、駅でないところでも平気で飛び降りてしまいます。あるとき前々から目星を付けていた客が、カーブで飛び降りた現場を見つけました。そのカーブはよく機関車がスリップし、スピードがグッと落ちるところです。今日こそはと追いかけて、相手の袖にすがりつきましたが、ワイシャツが破れて逃げられてしまいました。その日に限って機関車がスリップすることなく、列車は車掌を置いたまま行ってしまいました。あわてて次の駅まで追いかけましたが、機関手はいつまでたっても発車の笛が鳴らないので、列車はずっと動けず仕舞で待っていました。
頭脳型と遁走型を合わせたやり口もありました。忘れもしません。浅名駅はホーム1本の停留所でした。この反対側に、お稲荷さんの小さな森がありました。ある常連男子学生のやり口は、ホームで客扱いを終えて発車直後、飛び降りて森に隠れてしまうのです。こちらは発車直後でホーム看視をしなければならず、わかっていてもどうすることも出来ません。その学生は軽い気持で、今で言うならゲーム感覚で不正乗車を「楽しんでいた」のかもしれません。しかし正直に料金を支払ってくれる他のお客さんのことを考えると、とうてい許すことはできませんでした。
5.車掌はツラいよ
軽便鉄道は最高速度が時速40kmほどなので、事故があってもたいしたこと無いと思われがちです。しかし国鉄のように時速80、90kmで走っていれば跳ね飛ばされますが、軽便鉄道はむしろズルズル引きずり込まれるのです。このため手足の切断事故がしばしば有りました。朝の列車は満員で、一時は客車7両を連結してもまだ乗り切れず、デッキから外にぶら下がる状態でした。そんなとき、ある男子高校生が足を踏み外し、列車に巻き込まれてしまいました。急停車しましたが、その時には足首が完全に切断されていました。不幸中の幸いは乗客の中に看護婦さんがいたことで、必死で止血しながら、近所の民家で借りた戸板で列車に担ぎ込みました。近くの駅から病院に運び、なんとか一命を取り止めました。その後彼は高校を卒業し、立派な社会人になったということです。
軽便鉄道に20年もいると、様々なことがありました。死亡事故も経験しました。線路脇には鉄道電話の電柱が立ち並んでいます。これが新袋井に近づくと、線路と道路が併走し、狭い用地ギリギリに電柱が立つようになります。もともと車体幅いっぱいのところ、窓をかすめるような電柱の列です。朝の列車は乗客がデッキにぶら下がるほどの満員で、車掌などさらにハミ出す状態です。気を付けていても二三度電柱に頭をぶつけたことがあります。まさに目から星が出ました。これはまだ木柱だから命がありましたが、もし鉄柱にぶつかっていたら命がありません。事実あるとき、乗客が電柱にぶつかって振り落とされました。あわてて列車を止め、血だらけの人を列車に担ぎ込みました。それでも列車を遅らせてはなりません。駅からハイヤーで病院に担ぎ込みましたが、この人はついに助からなかったそうです。
6.とんだ軽便物語
事故といっても物騒なものばかりではありません。今から思うと、笑い話のような事故もありました。たとえば、野中の駅の側線には、翌朝の増結用客車が1両留置されます。これがある夜、ブレーキを掛け忘れたか緩んだかして、無人のまま走り出しました。野中から河原町にかけては下り坂で、横須賀の市街には踏切りも多くあります。しかし暴走した客車は何事も無く、坂を下りきって自然に止まりました。怪我人も自動車との衝突もなく、まさに奇跡でした。
一方、新袋井の終点の手前には、車庫に入る側線のポイントがありました。軽便鉄道用の小さなダルマポイントで、よく近所の子供たちがイタズラをしていました。このポイントは上半分が白塗り下半分が黒塗りで、本線側は白表示、側線側は黒表示になります。あるとき運転手が子供のイタズラに気付かず、この黒表示を見落として、列車が車庫に入ってしまったことがあります。終点間際の列車が、乗客も降ろさないうちに車庫入りしてしまったからもう大変。あわててバックして、終着駅でお客を降ろすことが出来ました。それからはポイントに鎖錠して、イタズラされないように改良しました。
ちなみにポイントの切換えも車掌の仕事です。車掌は規則で、列車の一番後ろに乗務することになっています。それがポイントを切替えるために、列車の前まで走らなければなりません。そのうえ列車通過後ポイントを元に戻し、こんどは動いている列車の最後部に飛び乗ります。雨のときなど、ずいぶんヒヤッとしたことがありました。
また駿遠線は全線単線なので、行き違い(列車交換)ができる駅で、タブレットを受け渡しながら走ります。正しく受け渡さないと、正面衝突の大事故になります。あるとき大井川駅と上新田駅の間で、列車が正面衝突しそうになりました。両方の駅長が間違えて、2列車同時にタブレットを渡してしまったためです。このときは田圃で働いていた人が異常に気付き、着ていた物を高く振って、あやうく事故を免れました。この人には後に会社から感謝状が渡されましたが、両駅の駅長は格下げ処分されたそうです。
駅長といっても、仕事は多忙です。なにせ駅長とはいっても駅にはたった一人しかいないのに、タブレット交換から受渡し、ポイントの切換えや信号の表示、キップや定期券を売ったり手・小荷物を受け渡したり、果ては便所掃除までしなければなりません。あるとき芝の駅で、腕木信号が上下両線とも上がったままになっていました。腕木信号が下がらなければ、両方からの列車とも駅に入るわけにいきません。すわ駅長の身になにかあったのではと、列車最後部から駆けに駆け、息せき切って駅に走り込みました。ところが駅長は、「おい、いったい何があった?」。とたんに拍子抜けしてしまいました。
これは事故ではありませんが、諸井の坂にはよく泣かされました。今では想像もつきませんが、新袋井行きの列車には山越えのこのわずかな坂が難所でした。朝の満員列車で、おりから小雨でも降ろうものなら、もう上ることができません。駅を通過できればなんとか上れるのですが、こんなときに限ってたった一人乗客がいたりします。そのようなときは列車を100メートルも200メートルもバックさせて、勢いをつけてから坂を上りました。もしこれが電車なら何でもない坂です。いや、軽便鉄道でなければ、機関車列車でも上がれる坂です。つくづく軽便鉄道の悲哀を感じました。
7.車掌時代黄金の日々
いやなことばかりではありません。軽便鉄道の良いところは、すぐ乗客と顔馴染になることです。沿線の飲食店ともかなり馴染みになり、今でも出入りしている店があります。鉄道職員の信用は厚く、現金が無くてもツケで飲み食いができました。厳寒の夜の乗務など、客車に暖房はありません。顔馴染みの店で熱い焼酎をググーッと飲み干し、腹の中に暖房を入れてから仕事につきました。焼酎1盃が35円の時代でした。それでも調子に乗り過ぎてツケを溜めると、給料日に店のおかみさんが駅の改札口に待ち構えていたりすることがありました。
若い頃は、カツギ屋のおばさんとも顔馴染みになりました。いろいろと面倒をみてあげたところ、あるとき静岡祭に招待してくれました。このときはたいへんなご馳走でもてなしてくれ、食糧難時代の若い食い気盛り、ほんとうに感謝しました。
新川西という停留所が、石津駅と七軒町駅の中間にありました。普段は列車が停車しない貨物駅ですが、毎年ある時だけ列車が停車します。それは付近にあった養鰻場の出荷時期でした。当時生きたままの鰻は木の樽に入れて、「活鰻」として輸送されていました。このときは列車司令係員から、第何列車新川西停車という指示があります。その指示に従って列車を止め、貨車に鰻を積み込みます。輸送が一段落すると、お礼にといって、太い鰻がドッサリと届けられました。
8.さらば軽便鉄道
駿遠線は朝夕は満員の乗客がありましたが、日中はほとんどありません。新袋井からは新横須賀間を過ぎると、もうほとんど乗客がいない状態です。まして新三俣から地頭方までは、毎日空の有様でした。おまけに朝夕満員の乗客のほとんどが学生で、通学定期券は長い期間のものでは約7割引。運んでも運んでも運賃収入はタカが知れていました。
一方、沿線を平行して走るバスは快適なディーゼル車が増え、道路改修とあいまって乗り心地も速度も軽便鉄道を上回るようになりました。乗客にとって軽便鉄道が便利だったのは、運賃の安さと、時間に正確なことだけでした。ことに冬の夜などは、暖房のない薄暗い軽便客車と、暖房のきいた蛍光燈のバスとでは勝負になりません。しだいに列車本数が減り、新横須賀から先は日中の乗客がほとんどいなくなりました。
このような状況から、会社では駿遠線の廃止を決定しました。社長が一度も現場を視察にに来たことなく、廃止の意向が現場に伝えられたとき、軽便鉄道はもうダメだと直観しました。こうして昭和39年に、まず新三俣〜堀野新田間が廃止されました。このとき同時に、大手線も廃止されています。
残された新袋井〜新三俣間は相変わらずの状態で、しだいに列車本数が削減されて行きました。新横須賀〜新三俣間では、ついに日中の列車が1本も走らなくなりました。それでも朝夕は満員の状態が続き、安全輸送には細心の注意を払いました。快速列車は最後まで運転されていましたが、乗客のいない停留所を通過するなら、日中のどの列車も快速列車といえました。
ついに新袋井〜新三俣間も廃止される日がやってきました。このとき私は35才、娘たちは小学校3年と1年生でした。お別れ列車は、昭和42年8月27日に走りました。新袋井駅構内周辺は、その夜のうちにたちまち線路がハガされ、翌日から代行バスが運転されました。駿遠線としては、1日も運行を休むことはなかったのです。
9.その後の車掌人生
軽便鉄道の列車は、もう二度と走ることはありません。発車の笛を吹くことも、もうありません。20年来働き続けた職場を失うというのは、実に悲しいことです。しかし生活のため家族のため、私はまた新たな道に進まなければなりませんでした。大型自動車の運転免許を取るため、毎朝5時起きで静岡の教習所まで通いました。このときの苦労は筆舌尽くしがたいものがあります。その後いろいろなことがあり、鉄道とバスの職場の違い、規律の違いを体験しました。数年間はバスの仕事をしてきましたが、やがて会社の早期退職勧告に応じ、静岡鉄道を円満退社しました。それから縁あって別の会社に入り、定年退職まで勤め上げました。
今でも車掌時代の夢をよく見ます。それは列車が止まらなくなったり、デッキから転がり落ちそうになったりする夢です。あまり良い夢ではありませんが、やはり私にとって、駿遠線の車掌をやっていた頃が最高だったのでしょう。少年時代から勤め始め、青春時代を過ごしてきた軽便鉄道の車掌という仕事が、やはり一番合っていたのかもしれません。いつの日か駿遠線で働いていたかつての仲間たちと、苦しかったことつらかったこと、悲喜こもごもの軽便鉄道人生を語り合ってみたいものだと思っています。