資料館目次へ

■■ 静岡鉄道駿遠線列車運転記 ■■

昭和21年から昭和42年まで在職された、元静岡鉄道
駿遠線の運転士Yさんの体験談などを元にまとめました


静岡鉄道駿遠線列車運転記

《 元静岡鉄道乗務員 Y 》       

 静鉄入社の頃

 私が静岡鉄道に入社したのは、昭和21年で18才の頃でした。その当時は食糧難で、就職もままならない時代でした。学校を出て最初は家の手伝いをしていましたが、幸い私は上の姉が静岡鉄道でバスの車掌をしていたので、軽便鉄道と呼ばれていた中遠線の新三俣駅に勤めることができました。当時はまだ中遠線と藤相線がつながっておらず、駿遠線と呼ばれるようになったのは少し後の事です。私の家は浜岡町のはずれにありますが、勤務先の新三俣駅まで7〜8kmの道のりを、毎日徒歩で通っていました。自転車がどうしても手に入らなかったからです。浜岡町の町はずれに池新田駅(後に改称)ができたのは、勤め始めてからしばらく後の事でした。この頃は多少近道しようと川の脇を歩くと、夜道や早朝には周囲にまったく明かりがなく、途中で足元が見えなくて往生したものです。

 軽便鉄道の列車はちっぽけで、まるで玩具のようですが、いろいろな規則は国鉄(当時)と全く同じでした。ことに安全に対する規則は厳しく、見習いの頃は先輩からやかましく言われたものです。また営業規則も厳しくて、旅客営業規則や運賃表を片っ端から覚えました。最初は旅客の切符発売などやらせてもらえず、貨物専門にやらされました。これも貨物営業規則があり、当時は国鉄と連帯輸送をやっていましたから、かなり厳しいものでした。たとえば自宅周囲の地名はだいぶわかりますが、知らない土地、時には北海道や九州にまで荷物を送る場合があります。そんな時には分厚い規則書と首っ引きで、行った事もない土地の地名から、正しい運賃を必死で探したものです。また貨物運賃をまちがえると、多い場合はお客さんの家まで返しに行かされ、少ない場合は怒られた上自腹で弁償しました。国鉄からは正しい運賃だと青色の貨物切符が来ますが、間違えると赤色の切符が帰ってきます。貨物切符の束の中に赤切符を見つけると、実にガッカリしたものです。

 そのうち窓口で旅客切符も扱わせてもらえるようになりました。当時は大人15円とか25円という運賃があり、子供は半額でした。いきなり大勢で、大人5人、子供8人などと言われると、内心苦労したものです。ソロバンでも習っておけばよかったと、つくづく思いました。また定期券の発売も手書きが多く、けっこう大変でした。もっと大変だったのは、定期券の払い戻しです。途中で使われなくなった定期券は、これまで使用した日数を計算して、日割りで払い戻します。金額を計算して、ここから手数料を差し引いてお客さんにお金を返すのですが、これがまた大変でした。今のように電卓などなく、使い慣れぬソロバン相手に四苦八苦しても、わずかの金額を間違えて大目玉です。駅員の仕事というのは泊まり(宿泊勤務)もあり、見た目より楽ではありませんでした。

 運転手への道

 この頃は蒸気機関車がまだ活躍しており、新三俣駅には翌朝の列車のための機関車が停泊(夜間留置)していました。これらの機関車は、放っておくと火が消えてしまいます。そこで庫内手という仕事の人が、夕方出勤してきて一晩中火の番をしていました。その中に年配の方がいて、若造だった私をけっこうかわいがってくれました。夜勤明けで帰ろうとすると、「オイ」と声を掛けられ、機関車に乗せてくれました。そして構内を運転して給水設備まで行き、いっしょに機関車のタンクに水を汲みます。この仕事を手伝うのがいつも楽しみでした。ときには運転台の機械にもさわらせてもらえました。今なら規則でうるさいでしょうが、当時はこんなことは大目に見られていたのでしょう。蒸気機関車といってもちっぽけなB形(動輪2軸)でしたが、私にはずいぶん大きく見えたものです。

 そのうち私には、運転手への希望の道が見えてきました。ちょうど会社でも、新三俣〜池新田(後に浜岡町に改称)間が開通し、藤相線と中遠線の直通運転が計画されていました。時期が良かったのかもしれません。私は駅の勤務の合間に猛勉強し、難しい試験を受けて合格しました。学校でも勉強はしましたが、これほど懸命に勉強したことは最初で最後です。しかしやっと試験に受かり、運転免許証(動力車操縦免許)を交付されても、当時は運転すべき車両が故障続きで不足状態でした。そのため私は、上司に勧められて別の仕事につきました。それは池新田(浜岡町)〜地頭方間の線路敷設工事です。先の新三俣〜池新田間は、遠江射撃場跡地にあった旧軍用軌道を払い下げて開業したと言われていますが、軽便鉄道とは線路の幅も違い、ほとんど新しく敷き直したようです。第一にカーブが急で、旅客列車にはとうてい向きません。私が工事した浜岡町〜地頭方間では旧軍用軌道は桜ケ池駅の西方、新屋川の川岸あたりまでで、そのまま利用した所はあまり有りません。さらに土地の起伏がかなり激しく、桜ケ池や遠州佐倉あたりは勾配続きで、苦労して重い砂利や線路を運びました。やがて昭和23年の秋には藤相線と中遠線がつながり、一本化されて駿遠線と命名されました。会社もかなりの期待を寄せていました。このため新線区間の線路の太さは、本線にあたる新藤枝側や新袋井側とほとんど違いがなかったように思います。やがて車両の整備が進み、私も列車が運転できるようになりました。最初は見習で運転していましたが、やがて一人前で運転できるようになりました。こうして私は、自分の手で敷いた線路の上を、毎日軽便列車を運転して走るようになりました。

 その頃の車両は、主にディーゼルカーと蒸気機関車でした。ディーゼルカーとはいっても、当時は戦前のガソリンカーに代燃装置を搭載したものが残り、会社では内燃客車と呼んでいました。代燃装置というのは、車体に搭載した代燃釜で木炭や薪を燃やし、発生したガスで車両を動かすものでした。戦時中の燃料統制の名残で、戦前のガソリンエンジンから、軽油で走るディーゼルエンジンに切換ったのはこの頃のことでした。また駿遠線の蒸気機関車はB型の小さなものばかりで、車輪(動輪)は2軸とも主連棒でつながっていました。それが悪い石炭(燃料)に耐えて、実によく走りました。当時は沿線に他の交通機関はなく、駿遠線の軽便列車が唯一の交通機関でした。このため人も荷物も運びきれないほど乗り、客車を何両つないでも満員で、乗客はデッキや窓からぶら下がったりしていました。後の年代になって、まるで列車が膨らんで見えたと言われた時代でした。

 駿遠線の良き時代

 運転手になってからも、実にいろいろなことがありました。乗務員区は初め新三俣にありましたが、その後私は相良に移りました。早朝や深夜の乗務のときは、合宿所があって泊り込みで仕事をしました。それ以外は、浜岡町の自宅から通いました。盆暮れ正月も、日曜も休日もありませんでした。よく軽便鉄道は坂道で止まってしまい、後押しをしたという話がありますが、ディーゼルカーになってからはそのようなことはありません。少なくとも私の運転した列車で、坂道の途中で止まってしまった列車はありませんでした。そのかわり駅で乗り遅れそうな人を見つけると、しばらく発車を待ってあげたことはよくありました。のんびりした時代でした。その頃は戦後の混乱期も過ぎ、あれほどの満員輸送もなくなり、世の中も落ち着いていました。駿遠線が最も賑わったのは夏の頃です。海水浴が今より盛んで、静波や相良が大賑わいで、横須賀には砂丘を利用したサンドスキー場などもありました。夏には海水浴列車を運転し、長い列車に大勢のお客さんが乗り、ふだんはガラガラの駿遠線もこの時期は稼ぎ時でした。また袋井の法多山の祭礼のときにも人が多く、新袋井行きの列車が浜岡町の駅で満員になってしまうほどでした。

 新藤枝の駅は見るからに大きくて立派で、私たちの誇りでした。ここからは新袋井方面の線路と、大手方面の線路が、まるで複線のように伸びていました。これらは単線2本が並列しているため、たまに両線の列車が同時に発車することがありました。どちらも満員の乗客を乗せ、客車を何両も引張り、互いに手を伸ばせば届きそうになって併走します。いっしょに走り出したときなど乗客は大喜びで、学生が多いとヤレ飛ばせ、ソレ負けるなと声援がかかります。こちらも若気の至り、ついついエンジンをふかし気味になりますが、相手の列車も同じようです。互いに速度を上げつつ、やがてタイフォンとともに分かれて行きます。この間1分足らずですが、まさに運転手冥利につきる思いでした。そういえば新藤枝〜高洲間も、新藤枝〜瀬戸川間も同じ2.2kmで、不思議な気がしました。

 思い出せば千浜〜西千浜間に国安海岸という、夏だけの臨時駅、いや小さな停留所がありました。今でも水がきれいな国安川(菊川の下流)の、鉄橋の西側あたりでした。ここからは小さな木造船が出ており、川を下って海に出て、海水浴場にお客さんを運んでいたようです。鉄橋といえば子供がよくぶら下がってイタズラした話がありますが、勝間田川や萩間川さらに大井川に、ものすごく長大な木橋がありました。橋脚が木製だったので、一部は橋脚だけコンクリート化されました。しかし大井川橋梁は長大すぎてコンクリート化できず、これが駿遠線の寿命を縮めたようです。また子供たちは線路の上によく石を置いて遊んでいたようですが、どんな小さな石でも運転していると、コツンと当るのがわかりました。いくら軽便鉄道とはいえ、石に乗り上げて脱線してしまうということはありませんでした。のんびりしていた時代ですが、やはり危険な遊びでした。

 駿遠線には快速列車も運転されており、快速の看板も誇らしく、小さな駅(停留所)を通過していました。これにはボギー車ばかりでなく、時には小型の片ボギー車も使われました。元中遠鉄道のキハC1、キハC2などです。片ボギー車は片方の台車が2軸で固定され、もう片方はボギー式で自由に首を振ることができました。独特の音を立てますが、思ったより乗り心地は良く、身軽なせいかスピードも出ました。快速列車は、停車場でも相手の普通列車を待たせ、堂々と通過して行きます。このときは走りながらタブレット交換をします。タブレットキャリアーを素手で掴むと、当り方によってかなり痛いことがあり、快速乗務のときは手袋着用に気を付けました。もっとも最高速度は普通列車と変わりありませんでしたが、小さな駅を通過することで、長距離のお客さんには喜ばれたようです。これも列車本数が減るに従い、快速の通過区間が短くなって、途中から普通列車になるものばかりになってしまいました。

 蒙古の戦車登場

 話はさかのぼりますが、駿遠線の蒸気機関車は昭和26〜27年頃には使われなくなりました。運転や整備に手間がかかり、その割には馬力がなく、石炭代も高くつくようになったからです。その代わり、蒸気機関車の足回りをそっくり生かして、ディーゼル機関車が作られました。これは蒸気機関をディーゼルエンジンに載せ換えただけで、バック運転ができず、終点では必ず転車台が必要でした。よく虎は死して皮を残すと言いますが、蒸気機関車は足回りと転車台を残してくれました。現場ではイノシシ機関車と陰口をたたかれましたが、一方向にしか走れないので、よく言ったものです。鉄道マニアの方には、蒙古の戦車とアダ名されたようですが、これはスタイルから付けられたようです。

 これら機関車は、1両1両スタイルや、運転台の計器やスイッチ類が違っていました。しかしエンジンや車体を時々載せ換えたせいか、性能はどれも共通でした。最初は元機関士の人が優先的に乗務していましたが、そのうち私も時々は乗務するようになりました。私にとっては、懐かしい蒸気機関車が無くなることは残念でしたが、毎日真っ黒になって乗務していた機関士の人々には、ディーゼル化はずいぶん喜ばれたようです。当然庫内手の人の仕事もなくなり、私をかわいがってくれた先輩もとっくに退職していました。

 この機関車を転車台で回す作業も、見た目より大変でした。転車台が小さすぎて、B形の車輪で前後ギリギリの長さしかなく、ピッタリ止めるのに最初苦労しました。しかし部外者には玩具の転車台で機関車を回すように見えるらしく、けっこう喜ばれました。新袋井の駅など、転車台が国鉄ホームのすぐ脇にあります。ここで機関車を回していると、列車待ちしていた国鉄の乗客たちが集まってきたり、子供たちが指を指して笑ったりします。一般の人々には軽便鉄道の機関車回しはかなり珍しく、まるで楽しげに見えたようですが、こちらは重い機関車を回すのに必死でとても楽しいどころではありませんでした。

 またこの機関車は音がうるさい割には馬力がなく、朝の新袋井行きの満員列車など運転が大変でした。ことに諸井の駅を発車すると、すぐに上り坂があります。勾配はたいしたことありませんが、発車直後のため、たまに上り切れないことがありました。特に小雨のときなど、気の利いた車掌なら乗客がいないとさっさと発車の笛を吹いてくれます。止まらないうちに再加速できるので、なんとか坂を越えることができます。しかし乗客が1人でもいると、完全に停車してからでは発車しても坂を上れません。そんなときは車掌に合図して、列車をバックさせます。長い満員の客車が連なっているので前が見えず、危険に対しては車掌の笛だけが頼りです。恐る恐る列車を下げて、駅のホームよりかなり下がってから逆転して発車します。このときあまりエンジンを吹かし過ぎたり、ギアの取扱いが悪かったりすると、空転してまた坂が上がれなくなります。ここが腕の見せ所でしたが、内心はヒヤヒヤで、やっと上りきると脇にグッショリ汗をかいていました。

 初めてのトルコン車

 昭和30年代の初め頃は、駿遠線のピークでした。朝夕の通勤・通学客で列車は鈴なりで、いつも車両は不足状態。会社では廃止になった他の軽便鉄道から、車両を集めて来ました。これらは新車といっても、他社からの中古車ばかりです。しかし焼け石に水で、会社側ではついに、自社製造による新車作製を決意しました。こうしてキハD14形という、スマートな車両が増備されました。何でも袋井工場で、ピカピカの新車が造られているという情報が入り、工場のそばを通るたびに完成を心待ちしました。やがて湘南型(正面2枚窓)の、今までにないスタイルの新車が竣工しました。早く乗務してみたいと内心思い続けていましたが、なかなか順番が回ってきません。そのうち湘南型の新車がもっと増備されるという情報が入ってきました。しかも次の車両はトルクコンバーター式になるというのです。それまでの機関車やディーゼルは、全部機械式変速機を装備していました。これは運転台の下に変速機レバーがあって、クラッチを切りながらロー・セカンド・サードと段を進めて行きます。大型バスやトラックと全く同じ仕組みです。それがギアを切り替えなくても走れるというのですが、内心は半信半疑でした。機械式にも良い点はあります。朝夕満員の乗客を乗せ、さらに重い客車を何両も牽引した場合、空転が心配です。しかしスロットルとギアの組合わせで、うまくそれを防ぐことができます。満員の乗客の重さを変速機レバーに感じながら、上手に進段すれば小雨でもまず空転することはありません。それが運転手の腕でしたが、こんな技が自動式でも出来るのか疑問が残りました。

 月日が流れ、憧れの新車も何度か運転した頃、ある日停泊の乗務が入りました。翌朝の始発列車に乗務するため、乗務区の合宿所に泊りがけの勤務です。そこで前日になって、明朝の乗務車両がトルコン車だと聞かされました。これまで運転方法やトルコンの取扱いの説明は受けていましたが、なにぶん実車が1両しかなく、教習運転ということまでは出来ませんでした。多少の不安を覚えながら合宿所に入ると、そこにはかつての見習い時代、新人の私に運転の手ほどきをしてくれた先輩がいました。トルコン車に初めて乗務する話をすると、「俺はすでに乗ったことがある」と、翌朝つき合ってくれることになりました。トルコン車に乗務する日の朝、約束通り先輩は早起きして駅構内の入換え作業、転線につき合ってくれました。側線に留置してあった車両を、構内を行き来して本線のホームに着ける仕事です。多少緊張しましたが、思ったよりはスムーズに運転することができました。先輩は「これなら大丈夫そうだ」と、さっさと乗務員詰所に戻って行きました。おかげでこの朝の列車は無事、定時で運転することができました。このときも軽便鉄道の職員同士の暖かさを感じました。大手私鉄では指導乗務員のことを「お師匠さん」と呼ぶそうですが、軽便鉄道ではそれほど乗務員も多くなく、自分自身で技術を習得するしかありません。このため先輩の指導は厳しく、さらに厳しい試験も待っていましたが、人命を安全に輸送する仕事から当然と言えることでした。

 水害ダイヤの話

 思い出してみればこのあたりが、駿遠線の絶頂期だったのかもしれません。しだいに沿線の道路が整備され、マイカーと呼ばれる自家用車が増えて行くのが、運転台からでもよく判りました。会社でも何度か電化や改軌を検討したようですが、沿線の人口が次第に減少しており、大規模な設備投資は不可能との結論でした。直通列車を運転してみると、乗客が減ってきていることがよく分りました。新藤枝から相良まではお客さんも多く乗りますが、地頭方を過ぎるとガクンと減ります。その先の区間は、車掌と二人だけで走ることもしょっちゅうでした。新三俣を過ぎ、新横須賀からは再び乗客がありますが、全線の中間区間の落込みの激しさは手に取るようでした。一方バスは新車も増え、整備の進む道路とともに、老朽化した軽便鉄道を圧倒するようになっていました。しだいに直通列車の本数は削減され、ついに地頭方〜新三俣間の日中の列車は運転されなくなりました。

 やがて昭和39年の秋、新藤枝〜大手間の大手線と、堀野新田〜新三俣間の連絡線区間が廃止されました。大手線は静岡市内に直通するバスのため、線路付替えの大工事を行ったにもかかわらず、日中ほとんど乗客のない状態が続いていました。中間の連絡線区間の廃止も止むを得ず、理屈ではわかっていましたが、自分自身で苦労して敷いた線路が無くなることは何とも耐え難い気がしました。当時私は相良乗務員区に属していましたので、この区間の廃止以降、中遠線側に行くことは無くなってしまいました。もっとも廃止区間の線路はしばらく撤去されず、車両の回送などに使われていたようです。

 長大な路線を誇っていた駿遠線も、旧藤相線側と旧中遠線側に分断されました。こちら藤相線側には新しい車両が集結され、あちら中遠線側には古い車両がやられたようです。そのうち昭和42年に、中遠線側も廃止されました。この時は、来るものが来た感じでした。残された藤相線側も、朝夕は相変わらず多くの乗客がありましたが、日中の相良以遠の落込みが目立つようになりました。線路の老朽化とともに、橋梁の多くが危険な状態になっていました。駿遠線ではもともと、ほとんどの川にかかる鉄橋の橋桁は木製でした。狭い川ならともかく、萩間川や勝間田川のような大きな川や、あの大井川橋梁ですら木橋でした。会社では次々と橋脚のコンクリート化を進めていました。木橋の橋脚を、細い3本のコンクリート柱と取替えるという、駿遠線独特の工法でした。しかし長大な大井川橋梁には同じ手は使えません。頻繁に補修を繰返していましたが、水害のたびによく落ちました。普段でも大井川橋上は時速10kmそこそこの徐行運転でしたが、強風が吹いたり水かさが増したりすると、時速5kmそこそこの最徐行運転を余儀なくされました。ゆれる橋梁を恐る恐る渡るのですが、乗客の不安は乗務員以上だったと思います。ことに風雨の強い夜など、ほの暗いヘッドライトだけが頼りです。線路の継ぎ目、ガーター(橋桁)の継ぎ目をひとつひとつ確かめるように、必死の思いで長い長い鉄橋を渡りました。一方傍らの国道を、バスや自動車は何事も無いかのように続々と通行していました。やっと反対岸に渡り終えても、まだ足元の線路が揺れているような気がしました。

 この長大鉄橋の両岸の渡り際には、保線区員の手製による風速計が設置されていました。風の強い時は、この風速計が安全運転の頼りでした。もしこれが真横を向いていたら、列車は直ちに運転中止、その場で立ち往生でした。そのような時はお客さんに列車を降りてもらい、徒歩で国道の富士見橋を渡ってもらわなければなりません。幸い私はそのようなことはありませんでしたが、運転打切りは何度も経験しました。あらかじめ風水害が予想されると、会社は大井川駅と大幡駅にバスを用意しました。そして危険と判断されると、列車の運転を打切ってバスで代行輸送します。風雨の激しい日列車が駅に着くと、駅長から運転打切りの合図が来ます。そうなると車掌と協力して、駅員も総出でお客さんに降りてもらいます。ひとしきり騒動の後、ガランとした車内に車掌と二人だけで残されたとき、つくづく軽便鉄道の悲哀を感じました。もっとも折返し列車の指令が来れば、再び大騒ぎでお客さんに乗換えてもらいます。そして元来た道を戻って行くのでした。

 そのうち会社では、あらかじめ水害ダイヤを設定するようになりました。代行バスを軽便鉄道の列車とうまく組合わせ、輸送力を確保しつつ安全運転を行うものです。軽便鉄道の車両は小さいようですが、輸送力はかなりありました。このためラッシュ時間帯は、代行バスをかなりの台数用意しても、1台1台全てが満員の状態になりました。その一方で日中は1台でも事足り、始発列車と最終列車などは最初から運休し、始終発駅の相良から代行バス1台を仕立てました。それでもバスはガラガラのことがありました。今から思えば、水害ダイヤをあらかじめ設定するほど、大井川橋梁は危険な状態になっていたのです。しかし保線区員はじめ職員一同は、全員一丸となって安全輸送に全力を尽くしていました。このため駿遠線では最後まで大きな事故が無く、大井川橋梁で列車が陥落して、乗客が激流に飲み込まれるような最悪の事態も一度もありませんでした。これだけは長い駿遠線の歴史の中で、最大の誇りと言っても過言でないと思います。

 さらば軽便鉄道

 こうして私の運転手としての日々は飛ぶように過ぎて行きました。ある日早番で、日中に仕事が終わると、乗務員区の区長に呼ばれました。うすうす気が付いていましたが、話の内容としては早期退職の勧めでした。区長いわく、今なら退職金を多く出せるということでした。私の家は姉2人、妹1人で、男兄弟は私だけでした。このため年老いた両親から、早く家に帰ってきてくれといつも催促されていました。そこで家族と相談し、この際浜岡町に帰ることにしました。さっそく区長に報告すると、その場にいた仲間たちがこの決断を激励してくれました。彼らの多くも、バスに移ることになっていたからです。

 やがて最後の乗務の日は、あっけなくやって来ました。その日いつものように乗務を無事終え、ブレーキハンドルと携行品を棚に返しました。しかしもう、次の交番表(勤務スケジュール)をもらうことはありませんでした。帰ろうとすると、「オイ」と区長に呼ばれました。区長は茶碗に入れた冷酒を1杯、私にすすめました。せめてもの気持ちだったのでしょう。言葉少なく、ご苦労だったなと言われ、胸に込み上げるものがありました。一気に飲んでそのまま席を立ちましたが、酒の酔いもあったのでしょう、乗務員区の裏で溢れる涙を止められませんでした。同席していた仲間たちは、気を利かせてか誰も見送りに来ませんでしたが、私には誰の心の中もわかっていました。私は記念として、乗務員の制服をもらいました。服地はやがてボロボロになりましたが、金ボタンは今でも大切に保存しています。これが私の、無事故を誇った乗務員生活の、唯一の証しなのです。

 私が静岡鉄道を去って間もなく、昭和43年でしたが、大井川〜堀野新田間が廃止されました。しかしこの時は駿遠線に乗りに行きませんでした。浜岡町に帰ってからは、もっぱら車を利用していたからです。もうバスに乗ることすら、めったにありませんでした。その後昭和45年に、とうとう駿遠線最後の区間、新藤枝〜大井川間も廃止されることになりました。私は思い立って、廃止間近のある日の午後、懐かしい駿遠線に乗りに行くことにしました。このときは久しぶりにバスに乗りましたが、やはり乗り心地は軽便鉄道とは雲泥の差でした。すでに御前崎方面から東名高速経由で、静岡に直行する特急バスもありました。エアコン付のデラックスな車両に、運賃だけで乗れます。しかしこちらはローカルバスを乗り継いで、夕方近くうらぶれた新藤枝駅に立ちました。かつての仲間が働いていましたが、この時は声を掛ける気にもなれませんでした。そして短い距離を、懐かしい列車に乗りました。それはトルコン車で、あの機械式ではありません。私にとっては、スロットルレバーをふかしながら、ギアをチェンジしつつ速度を上げていく感覚が染込んでいます。すぐに代行バスに乗換えて、大井川の国道橋を渡りました。広大な川原に点々と、駿遠線橋脚跡の木杭が残っているのを見たとき、私の胸に込み上げて来るものを感じました。そして一人つぶやきました。「俺は無事故で無事軽便鉄道を勤め上げた。これだけは誰にも負けない誇りなのだ」と。折からの夕陽が、車内を薄赤く染めていました。


資料館目次へ