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■■ 駿遠線意外史(1)■■

 四つの袋井駅 

 かつての静岡鉄道駿遠線は、どちらかといえば旧藤相鉄道側の方が話題豊富で、旧中遠鉄道側は比較的地味な存在でした。事実、地勢上からも旧中遠鉄道側の方が恵まれ、長大な鉄橋やトンネルを建設する苦労もありませんでした。しかしその旧中遠鉄道側にも、いくつかの意外なエピソードがあります。これらを順次綴ってみたいと思います。


 静岡鉄道駿遠線の始発駅であり、終着駅でもあった「袋井駅」ですが、実は袋井駅というは4つ存在していました。現在は1つだけですが、4つあったとはどのような訳でしょうか。一方始発駅であり、終着駅でもあったというのは、日本一?ともいえるキロポストのおかげです。駿遠線の袋井駅には東京方構内のはずれに、「60粁786米81」というキロポストが立っていました。このようなセンチ単位まで標記したキロポストは、実は秋葉線の終点にも立っていました。静岡鉄道の心意気というか、鉄道に対する愛着というか、なにかほのぼのとしたものを感じます。話題を戻して、4つあった駅を一覧にしてまとめてみました。これらについて順次解説します。

@袋井駅:官設東海道線袋井停車場→国鉄東海道本線袋井駅→JR東海道線袋井駅

 明治22(1989)年4月16日開業、現在に至る。

A新袋井駅:秋葉馬車鉄道袋井駅前駅→秋葉鉄道袋井駅前駅→静岡電気鉄道秋葉線袋井駅前駅→静岡鉄道秋葉線新袋井駅

 明治35(1902)年12月28日開業、昭和37(1962)年9月20日廃止。

B袋井新駅:中遠鉄道袋井新駅(東海道本線袋井駅とやや離れた地点)

大正3年(1914)1月12日開業、大正14(1925)年4月5日移転。

C社袋井駅:中遠鉄道社袋井駅→静岡鉄道中遠線社袋井駅→静岡鉄道駿遠線社袋井駅

大正14(1925)年4月6日開業、昭和42(1967)年8月27日廃止。

@ 袋井駅(国鉄→JR:東海道本線)

 最初に袋井に駅が出来たのは国鉄袋井駅で、明治22(1989)年4月16日開業、当時は官設東海道線の停車場でした。
 この年の2月1日には国府津〜静岡間が、御殿場・沼津経由で開通しています。そして4月16日の静岡〜浜松間開通とともに、袋井停車場(袋井駅)が設置されました。この静岡〜浜松間の路線決定に際しては、牧の原台地を避けるために様々な案が出されました。中には相良から池新田(浜岡町)・横須賀(新横須賀)経由の海岸ルートもあり、これなどは後の駿遠線の路線とほとんどオーバーラップする案でした。しかし建設を急ぐ政府としては、最短ルートでもある現在の金谷・菊川経由を選択しました。それはなぜだったのでしょうか?

 東京と京都を鉄道で結ぶ計画は、明治2(1869)年の朝廷会議において決定されました。これは明治維新政府が、日本を西欧諸国に引けをとらない文明国家にするという方針のもと、断固決定したものでした。しかしその路線は東海道を通すか、中山道を通すかについては未決定のままでした。翌明治3(1870)年には東海道の調査が行われましたが、その結果東京と京都を結ぶ鉄道は、中山道経由が適当だという結論になりました。それは東海道にはすでに海上輸送(船便)もあり、街道輸送も充実しており、鉄道を建設しても利用度が低いというのが理由でした。この決定には、当時の軍部の意向も強く反映されていました。それは艦砲射撃の圧倒的な威力を見せつけられていた軍部から出された、「東海道案は海岸線を通るため、沖合からの艦砲射撃を受けやすい。」という理由もありました。

 工事に着工した初代工部省鉄道局長官井上勝は、中山道の山岳地帯の測量を進めるに従いその地勢が予想以上に険しく、全線開通には工期も工費も膨大になることが判ってきました。井上長官は密かに命じて、東海道沿いに計画を変更する調査をさせ、結果東海道案の方が格段に優れていることが分りました。そこで井上長官は中山道案の強い主張者であった陸軍大臣山縣有朋公に単身面会し、東海道案への変更をお願いしたところ、山縣公は「それでは東海道を先にして、中山道はその次にしてもよい。」との賛成を得ることができました。井上長官はすぐに総理大臣伊藤博文公を訪問し、すでに山縣公の賛成を得たことを話し、この結果東海道案が採用されることとなりました。

 こうして東海道案は明治19年(1886)7月13日に閣議で可決され、19日に公布されました。また総理伊藤公はヨーロッパ諸国を歴訪し、各国の憲法を取り入れた日本国初の憲法草案(後の大日本帝国憲法)をほぼ完成させていました。そこで井上長官に「東海道線を建設するとしたら、開通はいつ頃になるか?」と問われました。実は明治23 (1890) 年に新憲法による衆議院の選挙を行って、議員を東京に召集し第1回の帝国議会を開くのに、鉄道開業は大変好都合だったからです。そこで井上長官は「どんなことがあってもそれまでには開通させてご覧にいれます。」と約束をしました。鉄道建設を急いだのは、実はこのような理由があったのです。こうして袋井の地にも、文明開化の証とも言える鉄道の停車場(駅)が設置されました。しかし官設鉄道東海道本線が開通した際、その停車場は旧東海道の袋井宿から、原野谷川をはさんだ対岸の高尾地区に建設されました。ちなみに当時は街道の宿駅に対し、鉄道の駅は停車場と呼ばれていました。これが現在の袋井駅で、国鉄の民営化によりJR東海の駅となり、今日も繁栄しています。

A 新袋井駅(秋葉馬車鉄道→…静岡鉄道秋葉線)

 次に設置されたのは、静岡鉄道秋葉線の前身となった秋葉馬車鉄道の袋井駅です。これは駅というよりも、停留所に近いものだったようです。秋葉馬車鉄道は「森の石松」で知られる遠州森町と、国鉄袋井駅を結ぶ唯一の交通機関として、明治35(1902)年12月28日に開通しました。これは遠州森町と袋井を結ぶ秋葉街道上に敷設され、開通したのは森町〜笠西村(後の新袋井)間13.6kmで、軌間は762mmでした。やがて沿線の途中にある、徳川家康ゆかりの寺「可睡斉」への参詣輸送を行なう目的で支線が建設され、明治44年(1911)12月28日に可睡口〜可睡間1.1kmが開通します。やがて大正8(1919)年に、大日本軌道静岡支社(後の静岡清水線)を買収していた地元資本の駿遠電気は、秋葉馬車鉄道を買収し引き継ぐことを計画しました。こうして秋葉馬車鉄道は、新設された秋葉鉄道株式会社を経て大正13(1924)年3月13日に駿遠電気と合併し、社名変更により静岡電気鉄道秋葉線となりました。同線は輸送力増強のため、順次電化と改軌(1067mm化)工事を行い、大正14 (1925) 年に新袋井〜可睡口〜可睡間が改修されました。これに続き、可睡口〜山梨間、山梨〜森川橋間、森川橋〜遠州森町間と順次改修を続け、大正15(1926)年12月25日に電気鉄道に生まれ変わりました。

 その後戦時中の昭和18(1943)年5月15日陸上交通調整法により、静岡電気鉄道は藤相鉄道、中遠鉄道などと合併して静岡鉄道株式会社となり、同線は静岡鉄道秋葉線となりました。その後昭和19(1944)年12月7日に起こった東南海大地震は、袋井地方にも大きな被害を及ぼし、秋葉線も大きな被害を受けました。特に可睡支線の被害は大きく、復旧できないまま昭和20年(1945)年1月31日から休止となり、そのまま実質廃線となってしまいました。一方秋葉線は終戦直後多くの乗客でにぎわい、世の中が落ち着くにつれ、誰言うとも無く「石松電車」として人々に親しまれるようになりました。この秋葉線の袋井駅は、静岡鉄道に合併された際、袋井駅前駅から新袋井駅に改名されました。新袋井駅は、ささやかな駅ながらターミナルらしく駅員も配置され、女性職員も配置されていました。その仕事というのは、ホコリだらけになった電車の掃除でした。電車は窓を開け放して走ると、車内は椅子も床もどこも土ぼこりにまみれ、それを丁寧に掃除するのは大変な仕事でした。中には国鉄の駅をはさんだ駿遠線社袋井駅の駅員と親子(母子)の職員の方もいて、互いに両袋井駅の仕事に励んでおられました。またこの駅の地面には、いつも怪しげな木箱がいくつか置かれていました。それらは実は、プラットホームの代用品でした。というのも、多客時の列車が客車を2両を増結して到着すると、後ろの1両が駅のホームからはみ出してしまうからでした。それほど乗客で混んでいた時期もあったのです。

 しかし時代が高度成長期にさしかかると、秋葉線も全国的なモータリゼーションの波に飲み込まれてしまいました。もはや田舎道をのんびり走る電車は、時代遅れとなってしまったのです。また沿線はどこも道路幅が狭く、電車はバスやトラックとすれ違うのに苦労していました。秋葉線は昭和35年度は約181万人の利用客がありましたが、施設の老朽化もあって、会社側ではバス化やむを得なしと判断しました。そして昭和37(1967)年9月20日に全線廃止、翌日から代行バス秋葉線が運転されました。

B 袋井新駅(中遠鉄道)

 この袋井新駅というのは、まさに幻の駅でした。それは全線開通までの「つなぎ」というか、仮開業駅の性格が強かったからです。すなわち駿遠線の前身である中遠鉄道開業当初は、路線が国鉄袋井駅まで乗入れられず、かなり手前で開業したのです。その位置は、正確な資料では不明ですが、袋井工場のあたりにあったということです。このような傾向は、藤相鉄道の藤枝新駅にもみられました。初代藤枝新駅もやはり国鉄藤枝駅に入れず、かなり北側に開業しました。その後国鉄用地を借用し、駅のすぐ脇に進出することができました。このとき線路は大幅に付け替えられ、初代藤枝新駅の跡地は全く不明になっています。ちなみに藤枝新駅が新藤枝駅に改名されたのは昭和31(1956)年になってからで、それまでは各地にあった○○新駅という命名法でした。現在ではこの名称は、福井鉄道の福井新駅に見られるくらいで、他はほとんど新○○駅に改名されています。

 話題を戻しますと、中遠鉄道は、大正3(1914)年1月12日より運輸営業を開始しました。開業区間は、袋井新(東海道本線袋井駅とやや離れた地点)・柳原・諸井・芝・浅名・新岡崎・新三輪・七軒町・新横須賀でした。この区間には後の大正4(1915)年5月11日に五十岡・石津が、さらに昭和5(1930)年12月24日には新川西貨物駅が開業しました。一方、路線延長工事は大正14(1925)年3月31日、新横須賀〜南大坂間が竣工。同年4月7日より開業しました。開通区間は新横須賀より、河原町・野中・野賀・南大坂でした。この区間には、やや遅れて谷口が大正14年12月1日に開業しています。

 路線延長工事を行う一方、起点の袋井でも、東海道本線袋井駅構内に乗り入れ線の許可を得ました。そして大正14年(1925)4月6日(南大坂まで開業の前日)に線路を延長して駅は移転し、駅名も社袋井駅としました。これで国鉄(当時省営)との接続が便利になり、路線の南大坂延長とともに業績はますます向上しました。それまでは乗客は徒歩連絡で、貨物は荷車に積み替えて国鉄駅まで運んでいたそうです。この時点で中遠鉄道は国鉄連帯輸送も行うようになり、それは静岡鉄道駿遠線になってからも続きました。このため中遠線沿線から日本全国への国鉄切符が買えるようになり、荷物も同様に日本全国に発送でき、一方で到着するようになりました。社袋井という駅名は、構内を国鉄袋井駅と共有していたため、社線袋井駅と国鉄袋井駅の区別のために付けられた(届けられた)名称です。これはその後、駿遠線として最後の日を迎えるまで変わりませんでした。一部文献に、駿遠線の起終点が新袋井駅とあるのは、実は社袋井駅のことです。

C 社袋井駅(中遠鉄道→…静岡鉄道駿遠線)

 かつての駿遠線社袋井駅は、国鉄袋井駅と跨線橋でつながり、その構内はまさに一体でした。駅名も社袋井とはせず、ただ「袋井/ふくろい」とのみ表示されていました。このため一般の乗客には、国鉄の袋井駅も軽便鉄道の袋井駅も同じことでした。この跨線橋の跡は、今日でもわかりますが、駿遠線の部分で急に狭くなっています。そして古い木造の跨線橋が、いかにも国鉄から私鉄に乗換えるのだという風情を醸していました。その社袋井駅は、ホーム1面2線のささやかなターミナルでした。もっとも側線や引込線が多かったので、広々としていたような印象があります。その跨線橋からホームに下りたところに改札口があり、切符売場もありました。ここで国鉄の切符を精算し、駿遠線の切符を買うことが出来ました。また列車が着くと、改札口では駅員も車掌さんも総動員で、駿遠線から国鉄への通し切符や定期券をチェックしていました。そんな賑やかだった社袋井駅も線路やホームが撤去された跡地に立つと、意外に狭かったことがわかります。

 その国鉄駅のホームには乗換え案内板があり、静岡鉄道/駿遠線/秋葉線と表示されていました。つまり国鉄駅の両側に私鉄が発着していたのです。このような地方駅はだいぶ少なくなりました。かつての福井鉄道武生駅でも、南越線の社武生駅と福武線の新武生(旧武生新)駅が、国鉄駅の両側に存在していました。ふとそのようなことに、何か共通点を思い出しました。また国鉄駅のホームからは、駿遠線の駅の全貌が俯瞰できました。そこでは頻繁に入換運転などが行われ、言い知れぬ活気がありました。中でも傑作だったのは転車台です。蒸機運転時代の、Bタンクロコぎりぎりの長さの転車台が、蒙古の戦車ことDB60型でも使われていました。それはそのはずで、DB60型の足回りはそっくり蒸機(Bタンクロコ)から転用したものだったからです。これを転向作業していると、国鉄ホームに人だかりができたそうです。ちっぽけな機関車をちっぽけな転車台で回転させる姿は、まるで遊園地の豆汽車のようだったからです。それでも転向作業をしている方はたいへんです。なにせ小さくても重量6〜7トンはある機関車です。それを人力だけで回転させるのはかなりの重労働。冬場でもたっぷり汗をかいたそうです。

 この社袋井駅のはずれに、ひっそりと目立たずに立っていたものがあります。そのひとつが冒頭のキロポストです。この「60粁786米81」という表示は、その距離においても精度においても、日本の軽便鉄道で他に例を見ないものでした。これをもし保存しておいてくれたらと悔まれますが、ちっぽけな木製の標識ですが、根は意外と深かったそうです。おまけに「根がらみ」という横木が入っており、簡単には抜けないようになっていました。そしてもうひとつが、中遠碑という記念碑(石碑)です。これは廃線後もかなり長く駅構内跡に立っていました。雑草に埋まり、知らない人には見過ごされそうでしたが、かなり貴重な駿遠線の遺跡でした。これを揮毫したのは、あの大東急電鉄の五島慶太氏で、いろいろな所以があります。この石碑のことは、また改めて述べたいと思います。

 ところで社袋井駅は、東京方というか藤枝・静岡方面に向いていました。つまり駅から南西方向、浜松・名古屋・大阪方面に分岐していました。新藤枝駅も同様な分岐方向でしたから、駿遠線全体を大きく見たなら、両終点が東京方を向いた「ティアー(涙)型」の線路配置をしていました。もし駿遠線が初めから一体の路線なら、両終点はそれぞれの方向に開いた釣鐘(紡錘)型の分岐の方がきれいです。しかしこれは駿遠線の前身が別々の会社であり、当時の私鉄の傾向として東京方に頭を向け、反対方向に分岐していたので仕方ありません。いや実は、旧中遠鉄道は南西方向にしか分岐できなかったのです。それは国鉄袋井駅の南東方向(東京方)は高台になっており、この方向に分岐するとしたら、かなりの土木工事が必要とされたからです。しかし南西方向は一面の平地で、鉄道建設も楽でした。さらに袋井工場という車両工場の用地を取ることも出来たのです。

 社袋井駅と切っても切れないのが、この袋井工場です。駅を西向きに発車した列車は、やがて並行する東海道本線と分かれて、進路をグルリと変えてから南東方向に向かいます。この線路が大きくカーブするあたりに引込線があり、その奥に駿遠線袋井工場がありました。今でも線路跡は専用道路として残り、袋井工場跡は最近まで駿遠運送の車庫として使用されていました。かつてここでは日常的な車両の整備・点検だけでなく、改造や新車の製造も行われていました。しかしこの工場には、大規模な機械装置などがあったわけではありません。跡地を見てもわかるようにその規模は小さく、機械設備も必要最小限で、さらに工場の建物もバッラック同然でした。しかしそこにはあらゆる車両を製造する能力があり、一時期は新車が続々と誕生して行ったのです。同工場は昭和42(1967)年に駿遠線廃止とともに閉鎖され、その栄光の歴史は長い年月の彼方に去っていました。

 ついに駿遠線は、昭和39(1964)年9月26日に新藤枝〜大手間と、堀野新田〜新三俣間を第1次として廃止しました。駿遠線は再び旧藤相線区間と旧中遠線区間に分離されました。分離後の両線は、旧藤相線側に比べ旧中遠線側はジリ貧に近い状況でした。そして昭和42(1967)年8月27日、社袋井〜新三俣間が第2次廃止として、長年の活躍に幕を下ろしました。社袋井駅付近では一夜のうちに線路が剥がされ、翌朝から代行バス中遠線が運行を開始しました。翌朝の始発に間に合わせるため、代行バス専用道路は突貫工事の砂利道のままでした。会社では代行バスの始発式を行い、用意された専用車の側面には、社袋井〜新横須賀〜新三俣間代行バスと大きく書かれていました。こうして静岡鉄道駿遠線および社袋井駅は歴史の彼方に消えて行きました。その後代行バスも大型化し、発着場所を袋井駅北口(秋葉線の新袋井駅側)のバスターミナルに移しました。そのようなわけで、社袋井駅の繁栄を残すものは何も無くなってしまいました。


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