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■■ 駿遠線意外史(2)■■

 旧中遠鉄道にあって旧藤相鉄道に無いもの 

二つの記念碑・・・・『中遠碑』と『柴(芝)停車場之記』


 静岡鉄道駿遠線では、旧藤相鉄道側はエピソードに事欠きません。地形的にも大河(大井川)への架橋や、トンネル(小堤山隋道)掘削工事など、様々な工事上の苦労がついて回りました。さらに幻の駿遠鉄道との競争や、大井川上の人車軌道敷設や県道との併用軌道など、そのドラマチックな歴史への興味はつきません。その点、旧中遠鉄道側の方が地形的には恵まれ、大自然との闘い(例:大井川の洪水による橋桁流失や、台風時の海岸線浸食による線路流失など)といったドラマはありませんでした。

 しかし旧中遠鉄道には、会社経営上のドラマがあったようです。それは中遠鉄道設立にかかわる、人間ドラマといえるようなものでした。いわば中遠鉄道は、マイ・レールあるいは、おらが軽便鉄道といった感じで敷設されたからです。藤相鉄道は藤枝大手の有力者が中心となって、地元資本を中心に株主を集め、その資本金で榛南地方に路線を延ばして来ました。これに対し中遠鉄道は、地元の人々が資本を出し合って、いわゆる1株株主が中心となって敷設されました。このため沿線の人々の中遠鉄道に対する「思い」は、ひとかたならぬものがあったようです。その一端として、旧中遠鉄道にあって旧藤相鉄道には無いものがあります。それは、中遠鉄道の顕彰碑ともいえる「石碑」の存在です。
 旧中遠鉄道の沿線には、現在でも2基の記念碑(石碑)が残されています。かつての始発駅、社袋井駅の構内には、「中遠碑」という石碑が建てられていました。


1960年3月 国鉄袋井駅下りホームから見た静岡鉄道駿遠線(社)袋井駅
右端の赤矢印の「黒い棒」が「中遠碑」(撮影:む〜さん)


1960年3月 (社)袋井駅構内(撮影:む〜さん)

 また芝駅の近くにも。「柴(芝)停車場之記」という石碑が残されています。この「中遠碑」は、駿遠線廃止後も長く旧駅構内に建てられたままでした。雑草におおわれた姿で、人目を避けるようにひっそりと、高さ2メートルほどの石碑が立っていたのです。これが近年、JR袋井駅南口の土地整理事業にあたり撤去されました。しかし駅北東にあたるワコー商事さんの本社ビル前に移設され、安住の地を得ました。これはワコー商事さんの先代が、中遠鉄道設立にかかわったからというご好意によるものです。

 一方の「柴停車場之記」という石碑は、廃線跡を整備した遊歩道沿いに立っています。かつての芝駅は駅構内がカーブし、よくこんな所に列車交換駅を設置したものだと驚くような、まさに狭苦しい場所にありました。それが廃線後駅舎ごと撤去され、広々とした明るい遊歩道に生まれ変わりました。このため、駅のあった頃と雰囲気が大きく変わっています。この地には芝駅跡を示す標識も立てられ、この柴停車場之記という記念碑もさぞ喜びつつも、その変化の大きさに驚いていることと思います。いずれにせよ、貴重な記念碑が今でも保存されていることは、遠来の駿遠線ファンにとっても嬉しいことです。

 それではここで、その碑文を見てみましょう。これは常葉学園大学の大場正八先生の資料によるもので、平成4年1月に書写された貴重な文献からです。

 碑文の本文(大場正八先生の資料による)

(中遠碑)
道路之通塞即国運隆替所関運備え経済産業等諸般文化盛衰職由鉄道敷設之緊要亦不俟論也
中遠鉄道株式会社置本社於磐田郡袋井町資本金五十万円擁従東海道本線袋井駅経小笠郡横
須賀町至同郡睦浜村三俣線路延長約十八粁為地方唯一重要交通機関抑中遠南部之地也北負
小笠連山南臨遠州洋長汀財物不通産業不振民以為患明治四十四年見地方鉄道補助法制定也
有志胥謀組織当会社大正三年始見袋井横須賀間鉄路開通宿望漸達当時藤相鉄道会社有開藤
枝相良間鉄路而南遠海岸線之貫通者是両社共通目的而亦鉄道本来使命也於東西相呼応当其
企画昭和二年本社先開横須賀三俣間鉄路雖然欧州戦乱以後世界的経済不況膨湃如潮来加之
自動車会社所在簇出鉄道会社之倒産者相次遭廃業解散之厄者不可勝算当社長芝田庫太郎君
創立以来在其織拮据勉当経営克献一身処百難當千辛喫万苦滅私奉公終始不渝為篤内外信望
上下輯睦戮力協和遂善処此難局者洵可謂至誠通神也在職二十有二年昭和九年一月遺不朽偉
業溢焉長逝遠近知与不知無不痛惜矣次創立以来之常務取締役塩谷桑平君為社長新任常務取
締役芝田佐平次君与支配人村瀬荘三郎君同心一体経営愈務社運益々昌将来之発展可期而待
也昭和十七年七月迎創業三十周年拳記念祝典並祭関係物故者霊亦出於報本反始之意也遮回
於当県偶有欲整備拡充交通機関統制強化其運営之議当社率先賛之昭和十八年五月中部交通
機関統合成併合改称静岡鉄道株式会社将愈拡張業務益寄与於地方交通発達蓋所以充実軍備
振興経済開発産業並啓培諸般文化而抑亦当社創設之本旨也頃者欲建碑叙事伝之於後昆諸文
於余与前社長斉姻且通前後事情故以不文不敢辞尚謀之於尾崎楠馬先生略録梗概云爾
昭和十八年八月                       井浪茂三郎撰

 中遠碑の大意

  道路の通塞は即ち国運を隆盛にし、またすたれさせる所から、関運を備え経済産業等や諸般文化の盛衰は、また鉄道敷設の緊要に基づくところ論をまたない。中遠鉄道株式会社は本社を磐田郡袋井町に置き、資本金五十万円を擁し、東海道本線袋井駅より小笠郡横須賀町を経て同郡睦浜村三俣に至る線路延長約十八粁で、地方唯一の重要な交通機関をなす。そもそも中遠南部の地は北に小笠連山を負い、南に遠州洋長汀(→遠州灘の長い海岸線)を臨む。民は財物不通および産業不振をもって患いをなすが、明治四十四年に地方鉄道補助法の制定を見るなり。有志は相はかりて当会社を組織し、大正三年に始まり袋井〜横須賀間の鉄路開通を見、宿望はようやく達せられた。当時すでに藤相鉄道会社が有り、藤枝〜相良間に鉄路を開いていたが、しかし南遠海岸線の貫通することはこれ両社共通目的であり、しかしてまた鉄道本来の使命なり。東西において相呼応して其の企画に当たり、昭和二年に本社は先ず横須賀〜三俣間の鉄路を雖然と開く。欧州戦乱(→第一次世界大戦)以後世界的な経済不況が膨み、これに加うるに潮が押寄せるごとく自動車会社の所在が簇出(→そうしゅつ:群がり出る様)し、鉄道会社の倒産者が相次ぎ、廃業解散の厄に遭う者に勝算はなかった。当社社長の芝田庫太郎君は創立以来その織にあり、拮据(→きっきょ:せわしく働く)して経営に勉めて当たり、一身をよく献げ百難を処し、千辛に當たり万苦を喫し、滅私奉公にて終始せらるるため内外の信望が篤く、上下輯睦(→しゅうぼく:あつまって睦まじくする)して力を合せついにこの難局を善処すれば至誠神通につうずというべし。在職二十有二年の昭和九年一月に不朽の偉業を遺し社長が亡くなり、遠近痛惜せずして知らぬもの無し。創立以来の常務取締役塩谷桑平君が次の社長となり、新任常務取締役は芝田佐平次君、支配人は村瀬荘三郎君となる。同心一体にて経営にいよいよ務め、社運益々さかんとなり将来の発展もまた期待すべし。昭和十七年七月に創業三十周年を迎え、記念祝典を拳行し並びに関係物故者の霊を祭り、また社史を出版した。当県をめぐり交通機関の整備拡充がたまたま要求され、統制強化してその運営に当る議に当社は率先して賛成した。昭和十八年五月に中部交通機関統合併が合成り、静岡鉄道株式会社と改称し、将来の地方交通発達における業務拡張に益々寄与する。もって蓋(おお)う所の軍備充実、経済振興・産業開発ならび諸般文化の啓培はまたそもそも当社創設の本旨なり。ちかごろ碑を建て叙事を後世に伝えんと欲し、諸文は前社長と姻戚でありかつ前後事情に通ずるゆえ、著述者があえてこれを起草した。尚、尾崎楠馬先生に略録のあらましを伝授していただいた。
昭和十八年八月                    井浪茂三郎著述(撰)

 この中遠碑は、大東急の五島慶太氏の筆(揮毫)により、旧中遠鉄道(静岡鉄道駿遠線)の社袋井駅構内に建立されました。この碑文の著述(撰)者は、磐田郡御厨村出身の県議会議員、井浪茂三郎氏です。同氏は松林山古墳(御厨古墳群の1つ)という遺跡発掘の発起人を務めたり、静岡新報社から「支那事変 銃後之礎」という本を出版されています。この碑文の文章を書いたいきさつは、おそらく静岡鉄道設立(昭和18年の5社合併)により解散する、中遠鉄道の偉業を讃えるためだったと思われます。ことに初代社長の芝田庫太郎氏が、数々の難題を乗越えて中遠鉄道を発展させたことの顕彰に努めています。また碑文に見られる尾崎楠馬先生とは、現在の磐田南高等学校(旧見付中学校)の初代校長先生です。この尾崎先生は、時の宰相浜口雄幸大臣とも深い親交があり、碑文の起草にあたって尽力されたものと思われます。
五島慶太氏はご存知大東急電鉄の総帥であり、長野県の青木村出身で四日市商業の教師から身を起こして時の運輸省官僚となり、その鉄道経営の手腕を認められて大実業家となりました。さらにはその後鉄道大臣も歴任しています。その五島氏が戦時国策として各地で私鉄を統合・合併し、たとえば関東地区では大東急電鉄を築き上げました。この静岡地区でも静岡電気鉄道を中心に5社を合併させ、静岡鉄道1社にまとめあげています。しかしいくら戦時国策とはいえ、この行為は合法的な「会社乗っ取り」であり、合併により元々の会社を解散させることに他なりません。当時の中遠鉄道は、沿線に相次ぐ乗合バスの進出によって、鉄道廃止という事態に直面していました。そしてこの緊急事態を、苦労して導入した片ボギー式ガソリンカーによって脱出し、会社三十周年記念行事も挙行した矢先でした。また広く慕われた先代社長の物故直後でもあり、このような記念碑の建立を必要としたものと思われます。一方の藤相鉄道側ではおそらく「それどころ」の事態ではなく、輸送対策や設備拡張や車両増備対策等に追われ続け、記念碑の建立にまでは至らなかったものと推測されます。


 さらに芝停車場之記(記念碑)の碑文のみご覧いただきます。これも大場正八先生の資料によるもので、平成3年5月に書写されたそうです。文字の送り(字詰め)は、実際の碑文に合わせています。またここでは、大意は省略させていただきます。

 芝駅開業の記念碑

       柴停車場之記
晨観墨江之花暮賞嵐山之芳昨探東奥之勝今酔南薩之巷遠則数時而到近
則瞬間而達人畜輸貨物運搬四方者則為鉄路汽車之便今也設於都鄙行於
各国地上殆如棋局之面如我中遠之地固不漏其大局時時勢進運促之大正
三年初春自袋井横須賀設置鉄路汽車以便民庶而其間浅場之地沃穣豊富
桑茶菓蔬之産特為夥 既有郵便局及銀行等備え而無停車場設甚懐不便
之感於是有志諸氏相謀醵金得設置停草場於柴爾来浅羽繁栄倍旧為百貨
輻湊之区而四隣近郷潤沢年加増焉顧区区一条車路不特謀全郡騾利逮万
人便益可謂其功徳偉旦大矣茲勒貞a聊記其由乃作頒日
 維時大正三年春 通鉄路兮拓?蓁 袋与横兮一直線
 南北繋兮如邇隣 中程設此停車場 往復運搬便人民
 愛喜文化?辺陬 智識日進事皆新

大正四年四月 八十三翁鴻斉石川英撰併書

裏面に 寄付者六十四人
    発起人十五人の氏名


この石碑建立にあたっては、当時83才だった石川英さんという方が、碑文の文面を書いたうえ(撰)、碑面の筆(書)も起こされたようです。ここには豊かで美しい土地柄ながら、交通機関に恵まれなかったこの地域の背景。そこに中遠鉄道が創立され、この芝(柴)の地にも駅(停車場)を設置するまでの苦労。有志が相談して資金を集め、駅(停車場)を誘致したこと。それが実り、各方面への交通の便が拓け、この地がますます繁栄する喜びが書かれています。それはまさに、最後の7言詩の8行に凝縮されています。この記念碑が建立されたのは大正4(1915)年4月で、中遠鉄道開業(袋井新〜新横須賀間)の翌年になります。すなわち中遠鉄道が開業したのは、大正3(1914)年1月12日のことでした。これは遠州のチベットと言われていた浅羽・大須賀地方の人々にとっては、文明開化がもう一度来たような驚きだったことと思います。


 同じ頃藤相鉄道でも、藤枝新〜大井川(旧)駅間が開業しています。それは中遠鉄道開業に遅れること約8ヵ月の、大正3(1914)年9月3日のことでした。ここで藤相鉄道は、ライバルだった駿遠鉄道の建設を待ちつつ、東海一の暴れ川たる大井川と格闘することになるのです。しかし駿遠鉄道解散という不測の事態により、大正4(1915)年には5月・7月・11月とステップを踏んで、木橋だった富士見橋上に人車軌道を開業して行きました。それからも路線延長に伴う難工事が続き、とても記念碑建立どころではなかったようです。藤相鉄道の苦難の建設の歩みは、昭和12(1930)年7月9日の、大井川鉄道専用橋完成まで続いていました。そして昭和18(1943)年5月15日には、
陸上交通事業調整法により、中遠鉄道とともに5社合併を余儀なくされました。この時藤相鉄道の幹部は、中遠鉄道の幹部とは違って、内心ホッとしたのかもしれません。いずれにせよ日本の交通史の上から、藤相鉄道と中遠鉄道という2つの軽便鉄道会社の名前が消えて行きました。
その当時まさか両社の線路がつながり、静岡鉄道駿遠線という1本の長い路線になろうとは、だれにも想像できなかったことと思います。


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